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批評家・伏見瞬とは“ギャル”である?(が、西村紗知は……)――「歌舞伎町のフランクフルト学派」開催に寄せて

さて、何から話そうか。
「歌舞伎町のフランクフルト学派」というトークイベントの開催が決定した。このイベントの概要はすでに伏見瞬が記したとおりだ。

これを受け、私の方からも事前に説明しなければいけないことがあるような気がしている。
この文章を今まさに読んでいる人は、伏見の知り合いか、そうでなければ西村の知り合い、あるいは両者のどちらかの知り合いの知り合いだ。で、だいたいこの両者の知り合いは被る。音楽ないし批評のクラスタというわけだ。だから伏見がああして気合の入った概要文を書き上げた以上、西村からはもう特に何も言う必要はないのかもしれない。
だがあれで、あぁそうかだいたいこういうことを当日話すのね、と知り合い達が具体的にイメージできるのか、私には自信がない。それに私がまだ何も語ってはいないのも少し問題だろう。
本当なら、どういう固有名詞を扱うか事前に決めておいた方が観覧者に対して親切なのかもしれない。だが先日伏見と西村が打ち合わせをした結果、5時間喋り通して具体的なプランは何も決まらなかった。イベントの内容を事前に把握したい人には申し訳ないが、我々2人の即興性を楽しみにしておいてほしい、と今はそう伝えるしかない。ただこれでチューニングはばっちりだ。
せっかくだから、我々の知り合いでもない人に対しても我々のやっていることを説明できるような、そうした文章をここに記したいと思う。それは要するに、西村が書く「伏見瞬」に対する批評、彼が上梓した『スピッツ論』へのコメントを中心としたものである。これを書くうちに、西村は自ずからこのイベントへの説明も行っていることだろう。また西村は、話の流れに従い、いかにして伏見瞬という批評家と出会ったか等、このイベントの成立事情に関わるところにも触れていかざるを得ないだろうから、これをもってイベントの前提を説明することとしたい。

●伏見と西村は「垂直的思考を遠ざけつつ閉じている」

まず最初に言わなければならないことがある。伏見が西村に声を掛けたのは、仲が良いからという理由からではないだろうし、我々はそもそもそんなに仲が良いわけではない(別に不仲でも疎遠でもないけれども)。実はそれほど共通点がない。音楽批評と言っても、普段のフィールドは全然異なっている(伏見がポップ・ミュージックで西村がクラシック・現代音楽。でも伏見が現代音楽で書くこともあるし、逆もまた然り)。育ってきた環境も、慣れ親しんできた固有名詞も違うし、人間性も全く違う。我々は出会うはずのなかった2人と言っても過言ではない。2人ともがそれぞれの事情で、図らずも批評という分野に逢着した。
しかしながら、共通点が実は不明瞭とはいえ、今の若手の批評界隈を見渡すかぎりにおいて我々の立場は似ていると言えるのかもしれない。商業ベース(あるいは社交を含まざるを得ない条件)のオーダーに対し、どのように批評を納品するのか、日々試行錯誤しているのが我々の共通点と言えば共通点だろう。特に伏見の業務内容は、ときにライター業に限りなく接近しているように見えることもある。
でも私は、伏見瞬のことを音楽ライターではなく批評家だと思っている。というより、音楽ライターとして彼がどういう仕事をしているかという、そういう実務的な側面については興味がない。西村は、批評家としての伏見瞬にしか興味がないのである。
なぜ、どのようにして伏見瞬は批評家か。それは、彼の文章もまた、独特の仕方で閉じているからだ。情報の提供や見立ての提示など、批評家であれライターであれ要求されることの多い役割を引き受けつつ、結局のところどこか自分の話をしているような、そんな感じがある(私はそれを、『痙攣』vol.2のART-SCHOOL論において最も強く感じる)。それにその「閉じ方」はいつも同じ方法によるものではないという意味でぱっと見てわかる感じでもないし(オペラ「スーパーエンジェル」の評も、肯定的でありつつ、しかしながら同時に閉じていると思う)、その「閉じ方」ゆえに、批評界隈においてもライター界隈においても、彼の仕事は誤解されることだって、ひょっとしたらあるのかもしれない(どうですか?みなさん)。

その閉じ方は、独特の論理というか、仕草やノリというか、要するにオリジナリティということなのだが、おおまかに文芸的と言い換えてもいいのかもしれない。すると、批評界隈において伏見瞬はそれほど文芸的ではない批評家と見なされ、ライター界隈においてはむしろ文芸的過ぎると見なされるような、そんなふうにほんの少し困難な彼の立ち位置が見えてくるような気がする。
困難な立場ゆえに、伏見瞬には伏見瞬の戦い方があるのだと私は思う。それは、戦っていない風に見える戦い方だ。そもそも、今日では特に、戦っていない批評家なんて居やしない。その点、批評家としての伏見瞬にしか興味がない、というのはつまり、西村は伏見の戦い方にまさに興味がある、という意味なのである(全然関係ないが、この戦い方という見方に関して、私は同年代の批評家においては赤井浩太という人を尊敬する)。
戦っていない風に見える戦い方とは、垂直的思考に対する、伏見独自の諦念のことである。後で確認するが、その諦念こそまさに『スピッツ論』の勘所に他ならない。ここで西村が垂直的思考として念頭に置くのは、「父殺し」とか「アナキズム」などの、権威的なものとの格闘や無効化への努力のことだ。伏見も西村もこういうのにあまり燃えない。我々は、垂直的思考によるだけでは、ドライブがかからないタイプの批評家だと思う。政治批評とか社会的紐帯とかがしんどい。
かといって、垂直的思考に替わるものを案出したい、つまりは水平的思考をものにしたいだとか、そういう意欲もあまりないような気がする。確かに、上記「スーパーエンジェル」評において、伏見は同時代人カニエ・ウエストを引き合いに出すことでこのオペラをオペラの歴史の呪縛から解き放とうとした、というふうに見える。その点この評を貫いているのは水平的思考だった、と言えるだろう。それでも、革命とかはしんどい。我々にはもう、スキゾキッズほどの気合すらないのかもしれない(でも、パラノでもなくないですか?)。
西村は、我々の内在的な共通点とは「垂直的思考を遠ざけつつ閉じている」ところだ、と思っている。会社員批評家という実態以上にこの共通点は重要だ。
だがいろいろと難しい。垂直的思考を完全に破棄してしまったら、批評は書けないだろう。水平的思考を敢えて目指したいという気持ちすらなくなったら、気の抜けた批評しか出来上がらないだろうし。そんな具合に、とにかく、我々は常にしんどいのである。

●「ポップカルチャー」についての西村の考え

そしてこのイベントで議題に上げる「ポップカルチャー」とはまさに、垂直的思考の無効な地点に他ならない。というより、ユースカルチャーでもカウンターカルチャーでもなくなりつつある個々のポップカルチャーは、ますます人々に垂直的思考を破棄するよう要求するだろう。過酷な現実を生きる労働者は垂直的思考をものにできない。垂直的思考は持続的なものだからだ。絶えず歴史や文脈を念頭に置き、自分自身の脊髄反射的な反応をコントロールしなくてはならないから。「ポップカルチャー」は本来、愛好家にではなく疲れ切った労働者のもとに舞い降りるのではないか、と思うとき、やはりこれは徹底的に水平的、断片ですらない何か点のようなものでなければならない。
複製技術により見境もなく伝播していく、露悪的で、泡沫的で、自らを産業を回すための手段にすっかり切り詰めている――そんな偏屈な「ポップカルチャー」への評価は、また再び有効になりつつあるのかもしれない。もちろん良質なポップカルチャー、繰り返し長く人々に愛されるコンテンツは現に生まれ続け、存在している。それでも西村は「ポップカルチャー」を人と話を合わすために見たり聞いたりするもののことだと思っており(物の組成や質よりもコミュニケーションの次元で捉えるようなものだと思っている)、しかしながらまた、この定義も実態にはそぐわないことだってわかってはいる。とにかく、「ポップカルチャー」とは雑居性だ。それは玉石混交の様相を呈する、物の組成や質のばらつきや文脈の混交についてのみならず、それぞれのポップカルチャーを取り巻く人々の異なる態度の同居についても視野に入れるべきだ。最高のものと最低のものとを、愛する者と愛さない者とを無理矢理同居させてしまう「ポップカルチャー」の暴力性よ。こうした雑居性が「ポップカルチャー」にとって常に悲劇のはじまりであり、同時に未来への道しるべでもあるのだと思う。
ちなみに西村は、伏見がちらとツイッターで言っていた「ポップカルチャーの不可能性」というフレーズを「垂直的思考の不可能性(の不可能性)」と読み替えていることを、ここに予め白状しておきたい。
(――なんだか、近頃のポップカルチャーは、垂直的思考があたかも可能であるかのような、面構えをしているものが多い気がする――不可能性の不可能性は可能性ではない――こういうこと言うとまた主語がデカいって怒られそう――もちろんそういう面構えでもしておいてもらわなきゃ、批評家ってのは言ってみれば垂直的思考のプロフェッショナルでもあるから、我々の仕事なくなっちゃうけど。どう思います、伏見さん?)

●「あなたも引き裂かれて(分裂して)るんでしょう」?

話が逸れてしまった。なぜ伏見は西村に声を掛けたのか。それは、伏見の生活実感、ならびにこれと地続きにあるところの批評家としての内在的な動機、これらが作用したからだろうと、個人的にはそう思っている。
早い話が、概要文にある「私はポップカルチャーに関する文章を書いて原稿料を頂戴しつつ、日中には、全く関係のない資料を作ったり方々で交渉したりしている。生活が、引き裂かれている。」とだいたい同じ状況に晒されている人間、それが西村なわけだ。伏見が『スピッツ論』で軸にした「分裂」という概念が、我々のかすがいと言ってもいいのかもしれない。伏見は、自分と同じように会社員と批評家の二重生活を送っている西村に対し、「あなたも引き裂かれて(分裂して)るんでしょう」と呼び掛けたことになるのではないか。そんな気がしている。
その呼び掛けに「はい」か「いいえ」で応えるのは難しい。「分裂」とは、これが伏見の生活実感とどこかでつながっている概念であることは否定できないにせよ、二重生活のことのみを指す言葉ではないだろうし、これから確認していくが、伏見のいう「分裂」概念は少し特殊だからだ。
以下に説明しよう。伏見の「分裂」概念がどんな具合かを説明することで、彼からの内なる呼び掛け、「あなたも引き裂かれて(分裂して)るんでしょう」への応答を試みようと思う(実際、伏見さんからは「トークイベントやりません?」としか呼び掛けられてないんですけどね)。

●『スピッツ論』の「分裂」のこと

「スピッツの音楽は「分裂」している。それが本書の結論だ。」(p.3)という一文からはじまる、伏見瞬の『スピッツ論』。「スピッツ」というバンド、この事象に対し、伏見の批評ができることを全部やっている。社会情勢との関連付け、バイオグラフィーの整理、音楽史上での位置価を与えること、メンバーのファッション・MV・CDジャケットなどビジュアル面の分析、印象批評、楽理分析、とにかく全部だ。これらの要素が互いに根拠づけ合いながら本書の記述は進んでいく。読んでいて、もうこれ以上スピッツについて語るべきことはないような気が自然としてくる。『スピッツ論』はたいへんな労作なのだ。
だが、「スピッツの音楽は「分裂」している。それが本書の結論だ。」とは本当にそうなのだろうか。半分は本当だがもう半分はそうじゃない気がする。
本書を今一度概観し、目次をもう一度見たとき、「分裂」は本書をまとめ上げる屋台骨のように機能しているという意味では結論というより主題であって、あるいは見立てや道具立てとも言えるだろうけれども、どのみち一口に「分裂」といってもその内実は一様ではない。
例えば、第5章「国について」の日本とアメリカにまつわる「分裂」は、もはや揺るがしようのない前提について言われるところのものだ。第3章「サウンドについて」の「とげ」と「まる」の「分裂」は、他のバンドやサポートスタッフからの影響関係を丁寧におさえつつ、スピッツの音楽から汲み取れる印象を言い当てたものだろう。それと、本書の「分裂」のセットがおおよそ対義語の関係をなす対概念になっているものの、第7章「性について」の「エロス」と「ノスタルジア」については、互いに対概念とはなっていないような気がする(であるからこそ、西村は本書においては第7章を、そしてこれと内容的に地続きであるところの第8章とともに重要視する。「エロス」と「ノスタルジア」という問題設定ににじみ出る割り切れなさ……)。エロスといえばこれとセットになるのはタナトスであろうし、しかしそうすると第9章の「生」と「死」と、だいたい同じ感じになってしまう……。
結論とは、もうこれ以上はない、ということだ。その点、本書は内容的にはもうこれ以上記述することはない、という意味で、伏見は「スピッツの音楽」については結論付けていると思う。現に、スピッツがその都度音楽でもって提示してきた「分裂」、つまりその見出された現実に、伏見が随伴した記録が本書なのだと思う。でもその見出された現実であるところの「分裂」については、伏見の中ではまだ終わっていないのではないか。現に、今回のトークイベントの概要文を読んだとき、やっぱりそうなのだろうなと思った。
批評にとっての結論とは、見出された現実に対する態度表明なのだと個人的には思っている。この意味においては、「スピッツの音楽は「分裂」している」とは伏見の批評にとっての結論にはなりえないはずなのだ。というより西村が個人的に知りたいのは、「分裂をいかに変奏できるか(die Variationen)」ということよりも、「分裂をいかに終わらせられるか」、いわば「分裂の清算(die Liquidation)」の方なのである。これは、現実に対する具体的な介在のことではなく、批評家個人の心持ちの問題で構わないと思う。もちろん、伏見瞬という批評家が、「分裂」に現実を改変する何かしらのポテンシャルを見出そうとするほど楽観的ではないことを、西村はわかっているつもりだ。
しかし、注意して読めば、態度表明にあたるものはその都度出てきていると思う。それは大抵「諦念」の身振りでもって示される。そして、もっともっと注意すれば、「諦念」ではない身振りも見えてくるように思う。それは「希求」であり、やはりこれもまた、閉じた表現としてでないとあらわれていない。
第7章「性について」と第8章「憧れについて」において、「希求」の対象と「希求」する主体の話が展開されているように思える。でも具体的に「これだ」と書かれている感じでもないだろう。それはときに、伏見の分析の一挙一動に微かにあらわれているに過ぎないものかもしれない。個人的に注目したいのは、「希求」モードの伏見はどこか身体的な感じがするという点である(伏見さんの楽理分析って作品に対する愛撫だと思うんですよね)。

●ギャルの精神性?

『スピッツ論』についてのコメントはだいたい以上となる。ここからは、だいぶいい加減な話をするので(すみません)、話半分に聞いてほしい。
『スピッツ論』におけるささやかな態度表明、「諦念」にせよ「希求」にせよ、「希求」に関してはどこか身体的な位相に対象を引き込む感じ、こうしたものを感じたとき、ふと思ったことがある。というより、前から思っていたことと言った方がよい。
批評家・伏見瞬とは“ギャル”ではなかろうか、と。
伏見の垂直的思考から遠ざかる動きには、カウンター的な暑苦しさはない。少なくともそれは、従来の分裂概念を扱う際の態度とは一線を画すものだ。
それで、垂直的思考から遠ざかる動きのなかに「諦念」と「希求」とが何かしらのきっかけをもって出てくると思うのだが、もはやそれはギャルの精神性に接近しているものではなかろうか。
しかし、「愚痴を言いたい」「常にしんどい」伏見がギャルの精神性に接近するのは、ギャルの泡沫的で身勝手な楽観性ではなく、これと常に陰と陽の関係にあるところの「病み」の方であって、Zoomgalsの楽曲タイトルをここに借用するなら「生きているだけで状態異常」と呼ばれるところのものだと思う。
この「分裂」≒「ギャルの精神性」という突飛な仮説を、西村は伏見が書き残してきたテクストを手掛かりにしてではなく、伏見との間に実際にあった出来事をもとに立てた。どんな出来事があったか、以下に説明しよう。

〇ギャルの精神性?その1:すばるクリティーク賞受賞記念インタビューでのこと

伏見と西村がはじめて本格的に会話をしたのは、遡ること2021年の2月。西村が、すばるクリティーク賞受賞記念インタビューのインタビュアーが伏見だと知らされたのは、当日、インタビュー直前のことだった。あれは実質対談だった。形式上インタビューとしてやってもらったものの、両者の差異が事あるごとに際立つのを互いに感じつつ、話をしたものだ。その差異が最もはっきりあらわれたのが江藤淳『成熟と喪失』をめぐる感想だったので、この話題が残ることとなった。
金曜の夜、集英社の会議室で我々は昼の仕事の疲れからくたびれていた。あのくたびれたニュアンスは原稿にはなかなか残りづらいだろう、と思った。我々の喋り方として、お互いに何を言っているのか実はそんなに理解し合っていないのに、妙にツーカーで喋れてしまう(当日は気を付けないといけません)。つまり「閉じた」会話だった。身体的と言ったほうがいいのかもしれない。この人も音楽家の身体で批評やってるんだろうな、と西村は思った。
そういえば、あのとき伏見は、漫画『GALS!』を読み返している、と言っていた(どういう文脈でそんな話になったのかもはや何も覚えていない)。西村はそのことを妙に印象深く覚えている。
……伏見さん、ギャルの精神を学んでいる?

〇ギャルの精神性?その2:「(J)POP2020」というイベントにまつわること

三鷹SCOOLで2020年1月4日に開催された「(J)POP2020」というトークイベントのことを思い出す。
・前日:伏見瞬の批評はギャルが読む(西村紗知の批評はギャルが読まない)
その前日2020年1月3日、西村はアトレ東中野の2階のパン屋の飲食コーナーで、パソコンを開いてせっせと演奏会評を書いていた。隣の席には、2人組の若い女性がなにやら楽しそうに会話していた。すると、こんな会話が耳に入ってきた。「なんか、こないだネットの記事読んで考えてたんだけど、私、King GnuとSuchmosはなんか違うと思ってて」。おや、と思った。よくよく聞くと、どうやらこの女性2人は伏見が書いた記事「2019年メガヒット、King Gnuが極めて「邦楽的」と言える理由」の話をしているようなのである。

他方私は杉並公会堂小ホールで開催された現代音楽のコンサートの評をそのとき書いていたわけだが、その若い女性2人の会話に勝手にいたく感動した。伏見さんの批評はギャルが読むのだなぁ、伏見さんの批評はこうして人々の批評眼を目覚めさせるのだなぁ、などと、批評がまさに立ち上がっていく瞬間に居合わせたため、西村はたいへん感銘を受けたものである。
……じゃあもう実質伏見さんがギャルだった、ってことじゃないですか(?)。
(ちなみに、その日西村が書いていたのはこちら)

・当日:佐々木敦からの問いかけに対する伏見瞬の応答を思い出す
「(J)POP2020」当日、演奏会評を書くのが遅い西村は、だいぶ遅刻して会場に到着する(確か、imdkmさんの個人発表の途中から入っていったと記憶しております。なんかちょうどディーンフジオカの話だった気がする)。だが、最後の登壇者全員が議論するパネルディスカッションはまるごと拝聴した。
このパネルディスカッションにおいて、近年のシティポップ・リバイバルにまつわる問題点について議論が交わされる場面があったのだが、印象深かったのは司会の佐々木敦からの次のような問いかけだ(記憶があやふやなところがあるので、不正確だったら申し訳ない)。「近年のリバイバルに特徴的なのは、オリジナルとリバイバルする側との年齢差の開きだ。それはおじいちゃんと孫くらい開いている。親と子くらいの開きなら、ファンの反応も含めて、両者の間になにかしら不和や抵抗が生まれるものだが、祖父と孫ともなるとなにも抵抗が生まれていないようだ。これからこの両者の関係は、特に祖父の存在感という点ではどうなっていくだろうか」。
今振り返れば、佐々木は「垂直的思考の不可能性(の不可能性)」について、それとなく問題提起をしていたのだと思う。他の登壇者3人の回答が済んだのち(柴崎さんが言いよどみつつ、それでも祖父の存在感が大きくなっていくでしょう、と答えていたのを記憶しております)、伏見は実に軽やかに、「そういうのはもう古くなったと思う。これからは互いにきちんとリスペクトする時代だ。崎山蒼志だって向井秀徳のことあれだけ礼儀正しくリスペクトしているではないか」といったことを回答した。
……なんというか、やっぱりギャルの精神なんじゃないかなぁ。

そんなわけで、長くなってしまったが続きは「歌舞伎町のフランクフルト学派」イベント当日に話してもよいだろう(話さないかもしれない。どうなるんでしょうね)。我々「歌舞伎町のフランクフルト学派」は垂直的思考を生活実感に基づいて否認し、水平的思考の可能性を探求せねばなるまい(ほらね、批評家・西村紗知はギャルではない……)。

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