記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

天にまします我らの母よ -ボーはおそれている-

No.01 「母親という神」

「子供にとって、母親は神と同じよ」

映画「サイレントヒル」より

「神に自分が嫌われてるんじゃないかくらいは考えろ。」

映画「ファイト・クラブ」より

ラストシーン、ボーは母親に対する数々の不誠実な行いのために、「有罪」の判決を受け、暗い水の底に沈められる。これが「最後の審判」のメタファーであることは明白であり、疑いようがない。

曰く、最後の審判は、以下のように定義されている。“最高神が降臨し、過去から現在にかけて、生きていたありとあらゆる人間の魂を選別する。殺人や婚外性交渉をはじめとした禁忌を犯しながら、悔い改めなかったものは陰府に落とされ、それ以外の人間は神の国に送られる。”
例えばキリスト教においては、裁きを行うのは「聖霊」あるいは「イエス・キリスト」とも呼ばれる存在だとされている。これに対し、ユダヤ教では最高神「ヤハウェ」が審判を行う。

「ヤハウェ」は、ユダヤ教における唯一絶対の創造神である。キリスト教における「主」も同様の名前で呼ばれることがあるが、キリスト教においては、自分たちの信仰の対象を「我らの天の父」とし「イエス・キリスト」と同一視するなど、神を男性的かつ父権的な存在として捉えている点が目立つのに対し、ユダヤ教においてはそのような記述は見受けられない。敢えて言うのなら、「自分たちの子供ともいえる信徒の行動、ひとつひとつを監視し、彼(あるいは彼女)が誤ちを犯すことがないよう、干渉し続ける」という性質は、女性——中でも、自身の子どもに対し、異様なまでの干渉と支配を行おうとする母親のそれと酷似している。

以上のことを踏まえて考えると、絶えずボーを監視し、その人生のすべてをコントロールしようとする彼の母親 : モナが、ヤハウェと相似する存在だということは、自明だと言えるだろう。

これは偶然の一致などではなく、意図されたものだ。それこそ「ボーが作中で遭遇するトラブルの数々が、モナによって仕組まれたものであった」ように。

これらの事象をもとに「ボーはおそれている」を読み解くと、神(≒母親)につけられた傷のために、彼女を憎みつつも——いつの日か、その悪感情が理由で、裁きを受けるのではないかと恐れるユダヤ教徒という構図が浮かび上がってくる。しかしてこれは、ユダヤ教徒に限った問題ではない。支配的な母親に育てられたものにとって、この葛藤は絶えず自身の人生に付き纏うものだと言えるだろう。

No.02 「自他境界」

アスペルガー少年にとって過去の虐待は「許して忘れる」というたぐいのものではなく(中略)やすやすと血が吹き出してしまう『かさぶたの貼らない記憶』でもあるという事実である。

藤川洋子「非行と広汎性発達障害」(日本評論社)より

「自他境界」は、SNSや書籍化などにおいてポップ化され、本来の意味を捻じ曲げられた言葉のひとつである。元来「自他境界」は精神病理学の分野において使われる単語であり「自他境界がついてない」というセンテンスは単に「風邪を引いている」「頭が痛い」のように、特有の状態を表すものであった。
では具体的に、「自他境界がついていない」というのは、どのような状態のことを言うのか。「自身と他者の区別がついていない」と表現してしまうのは簡単だが、それではあまりにも抽象的すぎる。曰く——私のような自閉症児によく見られる「自分が知っているはずの情報は、相手も知っていて当然だ」という思い上がりは「自他境界がついてない」が故の行動なのだという。

この「自他境界」に重点をおいて鑑賞すると、「ボーはおそれている」はより奇妙なものとなる。ボーと出会って間もないはずの登場人物が、本来ならば知り得ないだろう情報——例えば、ボーのきわめてパーソナルなことまで知り尽くし、そしてそれを公然と口に出している。極めて不自然だ、かといって——そのような現象に対し、ボーが違和感を覚えたり、訝しがる様子は一切描写されない。
作劇のため、不要なシーンをカットしただけとも考えられるだろう。しかしながら過去作「ミッドサマー」において、主人公が登場人物のひとり、イングマールに、名前のイントネーションを尋ねるシーンを挟んだことからもわかる通り、自然なコミュニケーションとはどのようなものか、それを把握しているだけではなく、表現することにも長けているアリ・アスター監督が、その不自然さに気づかないわけがない。つまり彼がこのような描写を繰り返し入れたのは、何からの意図があってのことと思われる。

ではその「意図」とは、果たしてどのようなものなのだろうか。
「ボーが対峙するかの世界の不自然さ」を強調するため、というのも勿論あるのだろうが、私は、ボーがモナから受けた虐待、それがどれほどまでに残酷なものだったかを観客により深く理解させるためではないかと考えた。

結論から言おう。「ボー」が、上に挙げた事象に対し、不自然さを覚えず、訝しむ様子も見せないのは、モナによる虐待の後遺症のためである。どういうことかというと、これらのことに対し、不自然さを感じないことが、不自然なのだ。モナによって、恒常的に自他境界を犯されてきたボーは、仮に境界を不自然に踏み越えてくる相手がいたとしても、その異常性に気づくことはできない。アリ・アスターは、ボーの傷をこのように捉え、描写した。

アリ・アスターが劇中において描写したボーの傷はこれだけではない。
(トレーラーや公式サイトにおいては、その断言を避けているようではあるが)ボーには不安障害の特性がある。インターネットにおいてはボーの疾患を「統合失調症」とする意見も見受けられたが、作中でボーが訴える「うがい液を飲み込んだから、胃癌になるかもしれない」という趣旨の不安や、劇中でボーが薬を服用する原因となった「鍵を盗んだ人間が、次の瞬間部屋の扉を蹴破り、自宅に入ってくるのではないか」というパラノイアはまさしく、全般性不安障害のそれであり、だからこそボーは「不安を解消する」効能の薬を処方されたのだろうと、不安障害の当事者であるという観点から、筆者は予測する。

絶えず自身の選択を監視され、干渉される環境においては、子供は何気ない選択さえも恐れるようになる。これこそまさしく、モナがボーにつけた傷の最たるものであると、私は感じた。

終盤、ボーはモナに、以下のように糾弾される。「自身に決断能力がないように振る舞い、責任を回避しようとしている」——しかしながらそれは、他でもないモナの行動が招いたひとつの結果であり、彼女はその実、自らの育児の失敗を、他でもない子供自身に取らせようとしているのだ。
自身の行動が招いた結果を受け入れず、それを他人に押し付けることは、果たして、「責任ある行動」と言えるだろうか。仮に彼女の言う通り「責任を回避しようとしている」ことが、ボーの罪障なのだとしたら、陰府に落ちるべき人間は、彼の他にもいるはずだ。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?