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あんこが嫌い。

私はあんこが嫌い。美味しくないから嫌いなのだ。
しかし、東山魁夷の絵を見た後のあんこは心に沁みて美味しいのだ。

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 コロナ禍が続き、もはやこの状態が普通でいいんじゃないかと思い始めた頃。ポストコロナなんてことは期待せずに、ウィズコロナで生活を社会を制度を考えたほうが良いんじゃないかと思うようになった2021年の秋。

 気になるあの子が、ピロリンと私のスマホを鳴らしてくれた。気になるあの子というのは、恋愛対象とかそういう色っぽい間柄ではなく、昔働いていた会社の女性の同僚で友人である。

 彼女は私にとっては不思議な存在。人生誰にも、大なり小なり私の人生の節目に立つことがあると思う。私の場合、その節目とやらが迫ってくるとき、何を言うわけでもないのだが、彼女がそっと水先案内人のように、方向を指し示してくれることが多いのだ。

 ただ、同僚の垣根を超えた仲で海外旅行に行ったとか、辛い仕事を乗り切ったとか、そういう特別な思い出が彼女とあるわけではない。だけれども、距離を縮めるわけでもなく遠のいてしまうわけでもなく、お互いにちょうどよい距離を保ちつつ交流を続けている。そして私にとっては、かけがえのない節目案内人だ。離すはずもない。

 そんな彼女から、「ミレーとかルソーの絵を観に行かない?」というメッセージ。なんの風の吹き回しか、私は彼女と絵画やアートについての談笑など一度もしたことがない。にもかかわらずの突然のお誘い。そして私にとっては、やっぱりグットタイミングなお誘いだった。

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 テレワークが長く続いてる昨今。
 職種には依存するが、自宅で仕事をするというスタイルを獲得した人も少なくないだろう。かくいう私もその一人だ。
 世の動向から考えると、仮にポストコロナが訪れたとしてもテレワークというい働き方は継続していくのだろうと予測できる。そして、その動きに追従して自宅のあり方もどんどん変化していくのだろう、とも思う。

 以前、私にとっての自宅は朝の身支度をするためと、夜に寝るための場所であり空間だった。そんな私は、コロナのお陰で思いがけずテレワークという働き方を獲得。そんなことから私の中で、自宅の位置づけというか、ランク付けが格段に上がったのだ。
 コロナ前は確論、自宅は「安心して寝ることができればいい」場所。それだけ。それが、テレワークにより自宅に長らく過ごすてみると、色々と不具合に感じることが多くなった。

 例えば、机の大きさや椅子の座り心地。自宅で働くだなんて想像していないから、とりあえずスポットで作業ができればいいや程度で購入した机と椅子。これがなんとも具合がよろしくない。
 机の足の高さが揃えづらくいつもガタガタするし、木材の角を滑らかになっていないから、机の角が腕に食い込んでくる。こんな椅子と机での長時間作業をすることは困難。しかも椅子と机の高さがマッチしなく、腰痛や肩こりを誘導する代物。
 ふと壁に目をやると、これが最悪。黄ばんだ白壁に天井の方はホコリですすけている。無機質で汚い。

 机と椅子はすぐに新調して改善した。後は壁の黄ばみや無機質さだ。壁の不具合に気がついてしまいながら部屋にいればいるほど、自分の部屋がなんとも殺風景でつまんない空間であることが気になって仕方がない。
 そんなことから、とりあえずホコリをはらい壁を拭いたりとキレイにしてみた。そんな作業をしていたら、レプリカやポスターとかでも良いから絵を飾ろうかしら、と思うようになった。絵を飾ることにより、黄ばみは気にならなくなるかもなと考えた、というわけ。
 せっかく絵を飾るなら、審美眼を養いたいと考え、美術館でもいってみようかなと思い始めた矢先に彼女からお誘いがあったという訳だ。さすが私の節目案内人だ。

 そんなこんなで、彼女への返答は「YES」以外の選択肢は存在しておらず、ミレーの「落穂拾い」や「種をまく人」を心待ちにして、美術館に彼女といそいそと向かったのだ。

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 美術館で真剣に絵画を堪能したのは、40年の人生の中でおそらく初体験だったのではないか。ただ一度、ミュンヘンで出会ったルーベンスの「最後の審判」には、神々しさとサイズの大きさから圧巻し見入ったが。
 余談だが、「最後の審判」はサイズが大きすぎて、しばらくそれだとは気が付かなかった。なんとなく遠いところから眺めていたら、ハッと気が付いた次第。そのときに、俯瞰って大事だなと痛感したとかしなかっとか・・。

 脱線を戻して。
 人生初であろう真剣に美術館を回った私。美術館を回り終わったあとの腹の減り具合といったら、本当にもうすごい。その時なぜか、「あんこが食べたい」という感情がフッと芽生えてしまったのだ。芽生えたのではない。私としては「芽生えてしまった」という感覚だった。
 あんこなんて一生食べれなくてもいいや、と思っていた。そんな私が「あんこ食べたい」だなんて。理由は良くわからなかったけど、あんこが無性に食べたくなった。

 しかし、この日は友人のフルコーディネート。時間割もきっちり計画されていたからあんこを差し込む余裕なく、芽生えた感情は露と消えた。

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 彼女のお誘いで美術館に訪れて1ヶ月くらい経過したころ、「そうだ、京都へ行こう」と謳っている新幹線の宣伝のようなテンションで、「そうだ、北陸新幹線に乗って長野まで行ってみよう」と長野市まで足を伸ばした。

 そして、たどり着いてしまった長野市。目的もなく来てしまった長野市。観光してみたいところなどがあったわけでもない。なんとなく長野市に来てしまったのだ。
 着いていから、さてどうするかと考え、安直ながら「長野市といえば国宝の善光寺か」と思い善光寺参りへ。一通り善光寺を楽しんだ後、時間をみるとまだ時間の余裕がある。ノープランのときはGoogle先生に聞くのが一番手っ取り早い。どうしようかなとGoogle Mapを眺めてみると「長野県立美術館」となるものを発見。しかも善光寺とも近く歩いて行けそうな距離。「これは行くっきゃないでしょ」と一人で膝をぽんと叩いた。

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  美術館まで道のりは、善光寺をぐるりと回るような行程。善光寺の威力なのか侘び寂びの美が感じられる街並み、目の前には山々が広がり、それらがグググと迫ってくるような迫力がある。侘び寂びのような儚さと同時に山々から感じる力強さ。なんとも絶妙なバランスが生み出す壮観だ。
 善光寺周辺の景観に対して思いにふけりながらしばらく歩いていると、目的の美術館に到着した。
 モダンな建造物にも関わらず、街並みや山々の光景と調和している素敵な美術館。大きな公園もあり、地元の人たちが思い思いに過ごしている光景も、一つの絵画のようにも思える。そんな所だった。

 長野県立美術館のコレクションなどの情報は全く調べてないままチケットを購入して入館。受付の女性はきっと勘のいい人だったと思う。私が、下調べなくふらっとやってきた旅行者だと気がついたのだろう、
「ここはヒガシヤマカイイも見れますよ」
と優しい笑みを浮かべながら教えてくれた。

 ガシヤマカイイ
 正直なところ聞いた覚えのあるようなないような響きだった。ピンとは来ていなかったが、彼女に促されるがままヒガシヤマカイイ展示室へ足を向けた。展示室に行く通路の案内に目を向けると「東山魁夷」の文字。なるほど、ヒガシヤマカイイの漢字は東山魁夷なのかと、ここで初めて合点。でもやっぱり、その名前にはピンとは来ていなかった。

 目的もなく来た私でも東山魁夷の絵画は、十分すぎるほどに夢中になれるものだった。ふわふわと優しい色彩のなかにある、重厚な重みや厚みを感じる不思議。素人目にも筆使いというのか、色のタッチのバリエーションが多く感じて、一人の人間が生み出したのかと思うくらい印象の違う絵画がズラリとあった。

 その中の一つ、長野県立美術館がコレクションしている「白い馬の見える風景」を見たときに、東山魁夷は自分にとって馴染みのある画家だったと気がつく。幾度となく彼の絵を見たことがあったなと。ただ、今回はその絵が自分の目の前にあり、今までとは格段に違い、東山魁夷が描く物語の断片に引き込まれていった。

 青や緑に囲まれた新緑の景色、初夏の高原で感じるヒンヤリとした空気感が伝わってくる。この絵はきっと早朝なのだろうと想像。眼下に広がる湖はしんとして静か。
 あたかも自分が彼が描いた絵の中の湖畔に佇んでいるかように感じる。確かに周りに人がいるはずなのに、自分だけが、その湖畔を前に立っている気がしてくる。静かにその美しい湖畔と、湖畔の向こう側にある木々を眺めていると、遠くに白馬が歩調よく横切っていく。
 そんなシーンにあたかも自分が体験しているかのようだった。

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 東山魁夷の世界を見終わった後、すごくお腹がすいたことに気がついた。
 なるほど。彼女と美術館を楽しんだときは気づいていなかったが、どうも私は絵を見るとき、自分が想像する世界に入り込むらしい。だから、私には絵画を楽しむという行為は刺激が多い。
 その結果、館を後にした瞬間から心地の良い疲労感がどっと襲って、そしてものすごくお腹が空くのだ。

 ミレーの時も、無自覚だったがそういえば、私なりの描き手の世界観に入り込み、絵画の中で小旅行をしていたのを思い出した。一緒に腰を曲げて落ち穂を拾い集め、この量でどうやってお腹いっぱいなれるのか、、などの思いを馳せていたのだ。

 節目案内人の彼女に感謝だった。
 これといった趣味を持っていないから、ダラダラと過ごしてしまいがちな休日が多い。特にコロナ禍に突入してからは、際立った。不惑に突入した私は心のどこかで、これでいいのか?と思っていた。内心焦っていたところに絵やアートを楽しむ、というちょっとした楽しみが増えたのだから。

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 美術館を後にしたときは、そろそろ新幹線に乗って帰路に立ったほうがいいころになっていた。お腹が空いた私は実に困ったが、こればっかりは仕方がない。何か食べたい気持ちを制し、長野駅へと向かった。

 そそくさとチケットを購入した後、新幹線内でお腹を満たすために駅弁でも買おうと思い、駅と連結している土産物屋さんとレストランが入っている建物に立ち寄った。適当に駅弁になりそうなものを購入して、早足で改札に行こうとしたとき、ふと目に止まった善光寺土産のまんじゅうをついでに買った。もちろん、あんこが嫌いな自分のためではなく家族のために。

 新幹線に乗り込み座席に座ると、一日の充実感はさることながら一気に疲労感も体中に行き渡っていった。私のお腹は、まだかまだかと食べ物を欲している。
 さて、電車も動きだしたことだし弁当でも食べようかと思ったのだが、なぜだろう、家族用の土産まんじゅうが気になるのだ。あんこが嫌いなのに。そういえばミレーを見終わったときも、あんこ食べたいて思ったんだった、と思い出し、これは挑戦してみるタイミングなのかもと考えた。
 行儀は悪いが土産用のまんじゅうの箱と封を開けて、ひとつ取り出しパクリとなんの躊躇もなくかじりついた。

 無駄のない素朴な甘さがじんわりと感じた。生クリームやチョコレートとはまた違う、優しい甘みが舌にまとう。喉越しも優しく、滑らかにゆっくりと通っていく。胃に落ちたあんこの甘さが優しく体中に広がり、疲れを癒やしてくれるように思う。五臓六腑に染み渡るというのは、これなのか?と思うくらい、私の疲れている身体に沁みて美味しい。
 あんこが身体に染み渡るのと同時に、東山魁夷の絵で感じた感情や感覚が、記憶の引出だしにスルスルッと畳み込まれていく。そして、美術館までの道のりの風景を思い出して、これもまたあんこの美味しさを増幅させた。じんわりと、今日の出来事が思い出として昇華されていく。

 でもやっぱりあんこは嫌いだな、て思った。だから、ふたつみっつとは手が出ない。きっと、ふたつめ以降のあんこは美味しくは思わないだろう。

 でも、あんこは美味しい。絵の世界観旅行をした後のあんこは格別だ。

 彼女は、あんこの楽しみまで持ってきてくれた。
 さすが、私の節目案内人。




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