「誰の人生を生きてきたんだろうね」獣になれない私たちのセリフに思うこと
ドラマ「獣になれない私たち」を観ていたら、新垣結衣さん演じる晶の「私たち、誰の人生を生きてきたんだろうね」というセリフがあった。
それは、彼女が会社でも恋人に対してもずっと人の期待に応え続けてきたことを振り返って出た言葉だ。誰かに必要とされて人の役に立つよろこびを裏返すと何もないことに驚き、途方に暮れる彼女の気持ちはすごくよくわかる。
仕事で頼りにされ、役に立ち、感謝されることは大きなやりがいでありよろこびだし、恋人がよろこぶ自分でいることも、無理をしているわけでも嘘をついているわけでもなく、自分もそうありたいと心から願っていたことだろう。
それに、「誰かのため」に動くことができるのはすこしも悪いことではない。むしろそれができる人には役割ができて居場所ができる。
ドラマ内でも、晶がいつも人に頼られてしまうことを嘆くと「それ嫌味?」と言われるシーンがあったように、はたから見ると彼女には居場所があり、何でも持っているように見えるし、どこに不満があるのか自分でもよくわかっていなかった。でも、彼女は崩れてしまう。
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「自分のため」と「誰かのため」はどちらかだけを原動力にしてはダメで、両輪がないとバランスが悪くて崩れてしまうのだろう。
「誰かのため」だけで動いていると、どんなに人の役に立ってそこに居場所ができても、そこは「自分のため」の場所にはならず、与えれば与えた分どんどん自分が減っていくような気すらしてしまう。
でも、晶が京谷の母の気持ちを汲んで家族に向かって代弁し、みんなに心からよろこばれたシーンのように、「誰かのためにしてあげる」のではなく、誰に期待されたわけでもなく本当にたすけたい気持ちのとき、つまりそれをすることで自分自身をたすけたいときは、人のための行動に見えて自分のためにやっている。
「私たち、誰の人生を生きてきたんだろうね」という言葉の側にある「自分の人生を生きる」とはどういうことかというと、自分をたすけ、自分をよろこばせることだと思う。
誰かが困っているのを助けるのが得意な人が、いちばんたすけたいのは自分自身なんだろうな。
と、そんなことを考えていたら、『獣になれない私たち』というタイトルから、國分功一郎さんが『暇と退屈の倫理学』の中で「人間が退屈に悩まされないためには動物になる(なにかに夢中になるの意味)とよい」というようなことが書いてあったのを思い出した。
この物語は、いつも他人の目や社会の考えに気をとられ、自分の思いや欲に素直に夢中になることができないわたしたちのためのドラマなのかもしれない。
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