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原爆忌・俳句のチカラ

俳句ポスト365の兼題にまさか「原爆忌」が来るとは
思ってもみませんでした。

みなさんはこの季語を見た時、どう感じたでしょう。
このご時世であるということと、
私は夏井先生から、俳句ポストにいつも投句されている方への
信頼、そろそろ出しても良いだろうという気持ちがあったのではないかなと想像しました。
もちろん、最近始めたばかりの人・私のように投句をし始めてまだ一年に満たない人さまざまだけれど、俳句ポスト自体が育ってきたという信頼。


ネットでたまたま別の季語の時に見つけたプレバトの句なのですが、
キスマイの北山宏光さんが詠まれた
「原爆忌あいつと青く飛んだ日々」
(お題の写真は友達同士の自転車)
に対しての夏井先生のご意見が下記の通り。(句の解説・鑑賞は省略)

「作者が分かって驚きしかない。」
「戦争を知らない世代の人達が『原爆忌』という季語に出会って、たとえば毎年句を作ることが平和の意味と意義を伝える一つの流れになる。あなたが作ったことに強い感慨を覚える」

つまりこういう趣旨なのだなと私は理解しました。

そして私自身、まさか原爆忌で詠めるとは思いませんでした。
子どもの頃から学校や家で戦争の映画を観たり、授業で学んできて、もう大人になった今はとにかくこわい思いが大きく、もうこれ以上見るのがつらいと思ってきたからです。
そのことに後ろめたさのようなものを感じていましたが、
でも最近は、それはそれでいいのではないかと思うようになりました。
なぜなら、ちゃんと「恐ろしいこと」「二度とあってはならぬこと」ということを十分に理解しているからです。

本当に向き合っていないというのは「無関心」「無知」のこと。
私はそう考えています。
(ただし、どうして他人が人のことを「無関心である」と言い切れるのかは疑問。それこそ想像力の欠如ではないかと。)

日本に生まれた私たちは戦争のことを「伝えていかなければならない」と考えるから、当時を知らない私たちが一体何を伝えられるというのだろう・・・と思ってしまう。
そうじゃないんだなと感じました。
夏井先生の言われることと重複しますが、皆がそれぞれに「考えること」。「考えることを止めない」限り、これから先へ繋がってゆく。
それが伝えていくことに繋がってゆくのだなと気がつきました。

20年ほど前に他界した祖父について今年知ったことですが、父の話によると「背が低くて戦争に行けなかった」とのこと。
そういえば祖父から戦争の話を一度も聞いたことはありません。
当時、「戦争に行けない」ということでどういう思いをしたのか、もう知り得ませんが、何となく想像をすることは出来ます。
だからこんな山の麓に住んでいたのかもしれないとも、あの美しい山と共にいろいろ想像しました。
命は繋がれ、こうして私たちが今生きているということも。

きっと、今回は類想がどうのというよりは、
俳句ポストに投句しているみんなで想いを巡らせて詠むこと。(あるいは、詠まないこと。どちらも同じ。)
そのことが大事で、結果はおまけみたいなものだと思っています。

自分ができる範囲で詠んでみました。
気がついたら「薔薇」の時と同じ30句以上は作句していました。
自分でも後から見てびっくりしました。

それは俳句の持つ力・性質によるものだと思います。
俳句の性質の一つとして、「喋ろう・語ろうとしないこと」
という点です。
「伝えないこと」
俳句で伝えるのではなくて、詠み続けることで伝えていく。

俳句でなら私も戦争のことを伝えていくための種が蒔ける。
作句した種は投句として撒かれ、
他者がそれを読み、鑑賞されることによって水を与えられて花が咲き、またそれは次の種へと繋がっていく。
これが今回の大きな発見でした。人生の中においても大きな発見であると思います。


原爆忌土へも海へも還らぬ  月石 幸

俳句ポスト365「原爆忌」 中級 並選

これが今の私に詠める精一杯でした。



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