多様性の腑に落ちない話

多様性って言われ出したのはいつからだったか。
人の個性は千差万別で、それを認めようという世の中になるのはすごくいいと思ってた。自分はたいがいの人生イベントでマイノリティなので。でもその象徴にLGBTとかLGBTQとか言い出して、社会運動にしようというエネルギーが湧いてきて、「声を上げる当事者」みたいなのが出てきた。自己アピールってのはちょっと足りないぐらいがちょうどいい。男だけど男が好き。女だけど女が好き。その他バリエーションがいろいろあるとしても、それはそれでいい。聞いた方も「あ、そうなの」で終わり。それ以上も以下もない。公表する必要はないし、周囲に理解を求める必要もない。

「私は人と違ってこういうところがあるけれど、個性として認めてほしい」
という意思表示にそもそも矛盾を感じる。「個性として認めてもらう」ことは、裏返すと(誰かから)是認されるリストに入ること。それは社会の一部になったというより、誰かが作った既存の枠組みをちょっと広げただけのことで、そこに入ってない別の「個」との新たな差別化ができる。この構造は椅子取りゲーム。ほんらい「多様さ」とは認めることではなく一人一人の自立を尊重すること。誰かに「認めてもらう」依存的発想と、それに同情するだけの「優しい社会」は気持ち悪い。

「クイズができる秀才」に感じる矛盾も同じ。難問に答えることが本当にすごいのなら、その問題を作った人のほうがもっとすごいじゃん。「正解を答える」ためには「正解がある問題を用意してもらう」ことが必ず必要だから。その役割にもたれながら勝負に勝ったような「してやったり」感を出してるクイズ回答者の姿はインテリとはほど遠い。大学や企業に「試験を受け合格して入る」のも同じで「試験を用意されないと図れない能力」が前提になっている。これは人間の自立には向いてない。「グローバル社会ですから自由な裁量を」なんて「試験合格社会」にどっぷり浸かってきた人たちにピンとくるはずもなく、そんな人たちがルールを決める今の日本社会、息苦しいほうがまっとうだろう。

生活を通して得た経験や身に付いた知識は誰かと比べられないもの。そこに創造力が加われば、さまざまな価値を判断するうえで必要な知性となりうる。なのに、誰かがいないと自分の力を表明できない依存社会を作ってきた大人が、あちこちで試験合格社会の弊害を生んでいる。個人の力がつけば、バカな政治家も、ブラック企業も、SNS上のくだらない罵り合いも間違いなく減るのに。

そのうえで、個人のセクシュアリティなんて自分が勝手に決めればいいことで、先天的かも後天的かもどうでもいい。異性に興味がない人間は1000年以上前から世界中にいたし、このクソ社会に名乗り上げる必要もない。社会が「認めよう」とするから「認めてもらう」努力をしなきゃいけなくなる。「あなたはそうなんですね」でいい。「どうぞご自由に」とみんながそれぞれ思うことが多様性を認める健全な社会になる。「アウティング」もそう。聞いた方が「だから何だっていうの。そんなこと毎日の生活に関係ないよ」と言い返してやればいい。できれば言われた人にも勇気を出して「気にしないで、明日もまたいつも通り会おう」と声をかけたい。
満員の最終バスに自分だけは乗りたい、という感じで声を上げる人を見るのはもうお腹いっぱいなんだよね。

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