推し(1年前の備忘録)

推しという存在は、それを推す人間の生活を豊かにポップに鮮やかにしてくれる絶対的なものだと思う。

一般的に推しというと、アイドルや俳優などの芸能人が連想されるけど、その限りではない。

食べ物、場所、香り、キャラクターなどなど、人によって何通りもあると思う。熱中度合いも千差万別だけど、みんなどこかしらでそういう存在に支えられてる。ありがたい。実にありがたい。

また、人間は大きく二つに分類できると思っていて、それがオタク気質があるかどうか。オタク気質って先天性な気がしてならなくて、何かに熱中して何年間もおんなじものに同じだけの愛情を注ぎ込んだ経験のある人はそれにあたると思う。

私でいうと嵐の大野くん。人生10年目から夢中で、大野くんの発言、行動、考え方、表現するものその全てが大好きで絶対的な存在だった。(今はお休みしてるから殿堂入りしてる、ほぼお守り。)

自分を裏切らない、不幸にしない存在だと信じて疑わないからこそ、熱愛報道なんかでようもんなら大荒れも大荒れなわけで、『応援してるならの恋くらい許してやれよ』とか言われがちだけどほんとにそういうことじゃない。

それをいう人は大抵非オタクの人。
最初はそういう人にプンスコしてたけど、人種が違うから一生分かり合えないのだと割り切ってからはなんとも思わなくなった、好きに言えばいいと思う。(決して非難してるわけではないけどそう聞こえるよねウケ)

自分にとって推しは絶対的だと散々言ってるけど、それと同時に商品であることも忘れちゃいけない。自分のものでは決してない。

あくまでそれを楽しみ消費しているだけ。

自分のものだと思うと一気に敵が増えるから危険、同担拒否とかしちゃうもん。

あ、あと、推しを周りに周知したい人がオタク、みたいな型ってある気がする。推しのいいところを共有したい!もっと知ってほしい!とアクティブに布教する人って多い気がするけど、それがオタクの概念なら私はオタクではないかもしれないな。

好きなものに対する自信のなさなのかもしれないし、自己開示することへの苦手意識なのかもしれないし、ただ単に興味がないだけなのか、まあなんでもいいな私はなんであれ私だもんな(迷走)

推しへの批判って、このご時世避けては通れないけど、どんな批判を受けようとどんな賞賛を受けようと、推しが推しであることに変わりはない。

勝手に信じてるだけで勝手に好きなだけ、その線引きをどこに引くかで幸福度合いも変わってくるかもしれないな。

なんか長く書いちゃったけど、変にフィーチャーされるようになった推しというワードへのたまに訪れる違和感と、なんか文字に起こしたい!という思いが起因した本投稿。

きっと誰の目にも止まらないけど、やっぱりストレス発散になるな( ◠‿◠ )推しよ、いつもありがとう。

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