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映画ドラえもん 大谷ディスと空の理想郷(ユートピア)

ドラえもんの新作映画が公開された。まず、面白くなかった。

(以下、空の理想郷のネタバレを含む)


空の理想郷のあらすじ

ストーリーを簡潔に述べると、誰もが完璧な人間でいられる平和で素晴らしい理想郷だと思ったらゲキヤバ洗脳施設だった。友情でなんとかなれーッとやったらなんとかなった。

映画ドラえもんというと私はひみつ道具を駆使した大冒険に悪役との大立ち回りを期待するのだが、本作は冒頭で冒険をダイジェストでお送りしたらもう終わりで、アスレチックで遊びながら算数の問題を解くという劣化版ドラゴン桜のような映像が何度も続いたと思ったら、正体が明らかになった『理想郷』を舞台に説明と説教で映画後半を締めくくるという酷い出来だった。映画の後半はほぼ全て口頭による説明・説教で話が展開していたため、映画ではなく朗読劇を観ていたような違和感を覚えて仕方がなかった。

せめて、説明が一方的ではなくまともな会話だったり、説教の内容が時代にあわせてアップデートされていたらまだ楽しめたのだが、残念ながら舞台背景を登場人物に語らせるだけの内容に私の気持ちはすっかり冷めてしまったし、説教の内容もゼロ年代を彷彿とさせる古臭いものであった。

悪役の造形も同じようにひと昔前のありきたりなやつだったが、ちょっとだけ今風にアレンジされていると解釈もできたため、その辺について書いてみたい。


本作の悪役と映画に込められたメッセージ

本作の悪役は狂気の科学者レイ博士。上述の通りゲキヤバ洗脳施設である空の理想郷『パラダピア』を作り上げた未来の科学者である。そこでは誰もが礼儀正しく他人を思いやり、しかも勉強までできるという完璧な人間になることができるというのだ。しかし、それはレイ博士の邪な計画の一端だった。

パラダピアの人間が完璧になれるのは、レイ博士が研究していた「人間を操る光」による洗脳の効果だった。しかも完璧な人間とはレイ博士の命令に従順な人間と同義だった。レイ博士は幼い頃から不遇な仕打ちを受けてきて人間に絶望していたため、「人間を操る光」を使って悪い心を消し去りたかった。その光によってすべての人間から悪い心が消え去れば、世界は必ず幸せになると信じたからだ。

ちなみに、これもレイ博士の口から語られたことだが、悪い心があるから戦争が起こるらしい。脚本家はロシアウクライナ戦争についてもそう思っているのだろうか?ちょっとは時代に合わせて悪役の思想を作りこんで欲しいものだ。

さて、悪役であるレイ博士を通して制作者が観客に伝えたかったメッセージ、あるいはレイ博士に投影された悪とはなんなのだろうか。

ひとつは「他人を思い通りにする圧力を許してはならない」であり、もうひとつは「ひとりひとりの欠点を無理やり漂白するのは良くない」だと、私は思う。

この2つを合わせて「他人の欠点を無理やり漂白する圧力に負けるな」というメッセージがあったと言っても良い。この映画のキャッチコピーが「僕らの「らしさ」が世界を救う」だったことからもそれは明らかである。ただ、2つのうち前者がレイ博士に、後者はどちらかといえば物語全体に割り当てられていたため、2つに分割した方が自然だと思う。


「他人を思い通りにする圧力」によって「欠点を無理やり漂白する」ことは許されないというメッセージ

つまりはこのメッセージを発するために、悪役であるレイ博士が圧力をかけ(=「人間を操る光」を使い)、のび太たちが「らしさ」を活かして世界を救う(=欠点があってもOK)というストーリー展開になっているわけだ。それが口頭による説明のみで構成されているから酷かったのだが…まあ、それはともかく。

レイ博士はこの世から「悪い心」を消し去ろうとして洗脳装置を作るに至ったわけだが、その内容自体はありきたりで子供だましもいいところだった。しかし、「悪い心」を消せばハッピーな世界になるというレイ博士の主張を聞いて私はポリコレやジャスティス戦士の精神性にそっくりだと感じた。

ポリコレは、ご存知の方も大勢いるだろうが、political correctness(ポリティカルコレクトレス:政治的正しさ)の略で、Wikipediaによれば”社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された政策(または対策)などを表す言葉の総称”を指すらしい。

平たく言えば、差別を受けている「かわいそうな」人たちが不快になったり不利益をこうむったりしないように努力すること、となる。これが転じて、何かしらの表現物から「かわいそうな」人たちが不快になる様子が頭に浮かんだら、つまり差別が連想されたら、その表現物を作者ごと燃やすような炎上行為に発展するケースが主流になりつつある。

畢竟、ポリコレとはこの世から差別を消し去ろうとする圧力のことなのだ。差別が連想される表現物を燃やし、そのような表現物を作れなくなるように作者を教育する。これはレイ博士の「悪い心」を消し去るべきだという主張と完全にリンクする。ポリコレが「漂白」の対象としているのは一般的には差別、具体的に言えば社会的少数派を軽視・蔑視・侮辱する「悪い心」であることからも明らかだ。

もうひとつのジャスティス戦士だが、これは私が勝手に使っている単語なのでちゃんと説明しておこう。ジャスティス戦士とは世間が悪人と認めた対象を心ゆくまでバッシングし、追い詰める人間たちのことである。過去には戦争に反対する非国民を見つけてはつるし上げたり、最近では自粛警察やマスク警察として社会正義に反する人間を見つけてはつるし上げたり、寿司ペロ高校生や不謹慎TikTokerをSNSで晒し上げてはいかに自分たちが社会正義を理解しているか確認したり、果ては彼らの所属高校に抗議を行ったりと、社会に広く共有されるせいぎのこころに従って行動する善良な一般市民のことである。

ポリコレをただしいと信じてやまない人間は「悪い」表現を見つけては「漂白」してやろうと圧力をかける。もしもレイ博士の「人間を操る光」があれば、当然使っているだろう。似たようなものならばすでに活躍しているようだが

しかし彼ら彼女らはやりすぎた。その上、「漂白」の対象を探しては厳しいバッシングを繰り広げる様子は、まるで自分たちが「悪い心」を持っていないと確認するために「漂白」活動をしているようにも見えた。目指す社会正義のハードルばかりがどんどん上がり、その過剰なただしさについていけない人間や自分の好きなものが「漂白」されそうになった人間が出始め、ポリコレは嫌われていった。

一方、ジャスティス戦士は人気である。むしろ人気うなぎのぼり中と言ってもいい。

なぜなら、ジャスティス戦士が「漂白」を試みる相手は確かに「悪い心」を持っている(ように見える)からだ。寿司ペロは店にとって迷惑だし、不謹慎な発言は感受性豊かで繊細な魂が傷ついてしまう。これらの行為を「悪い」と見なさない人間は珍しいだろう。私だって「悪い」と思う。

そしてその感覚は広く共有されている。いや、社会常識であると言ってもいい。しかし、だからといって、SNSで拡散したり所属高校に電話をかけたりと私刑を行うのはとても褒められたことではない。言い換えれば、彼らが悪さを働いたからといって「無理やり漂白するのは良くない」のだ。

罪を罰するのは司法の仕事である。あるいは、当事者どうしで手打ちにすればそれでよい。善良な一般市民が「他人を思い通りにする圧力」を振り回して「欠点を無理やり漂白する」ことは決して許されるべきではない。私刑は決して許されない。誰もが賛同する考えのはずだが、ただしいこころを持った善意の人間が「悪い心」を追放しようと頑張る(=他人を思い通りにしようと圧力をかける)ことが、今この世では称賛されている。

このように考えれば、レイ博士の悪役としての描写は十分に現代的であると言える。レイ博士も善良な(しかも優秀な)自分が「人間を操る光」を振り回して「欠点を無理やり漂白する」ことを目的にしていたからだ。違いと言えばポリコレがただしいと信じる者やジャスティス戦士は不特定多数の匿名者である一方で、レイ博士は固有名を持ったただ一人であることか。まあ、残念なことに、映画の描写からそのような現代風刺は感じとれなかったのだが。


狂気の科学者レイ博士を生み出したのは誰?

レイ博士は大勢の悪意に晒されて心を歪めてしまったから「悪い心」のない世界を作るべく「人間を操る光」を作った。

では、その悪意とは何だったのか?

具体的には明示されなかった。おそらくわざと。「悪い心」を具体的に絞ってしまえば、広く訴えかけることができなくなるし、感受性豊かで繊細な魂を傷つける恐れもある。新ドラ映画がそんなリスクを冒せるわけがない。

だからレイ博士の他の言動からの推測になるが、彼は周りから認められなかったとも言っていたため、レイ博士が「大勢の悪意に晒され」た理由を『異端』だからと考えてみた。彼は社会における異端であり、異端ゆえに大勢から排斥されたのである、と。

異端を理由にした排斥は現代におけるポリコレやジャスティス戦士によるバッシングと相似である

異端は常に嫌われ、疎まれる。いつの時代もそうだった。しかし時代が経るにつれ、いくつかの異端は社会に受け入れられ、歓迎されるようにすらなった。その一端を担ったのは確かにポリコレだっただろう。念のために言っておくが、ポリコレが嫌われたのはポリコレをただしいと信じる者たちが「やりすぎた」からであって、その理念が嫌われたからではない。

社会もポリコレと並行して様々な異端を受け入れるようになった。しかしどういうことか、異端の中でも誰かに迷惑をかけるタイプへの拒絶感は増えるばかりである。感受性豊かで繊細な魂の持ち主がなぜか増えており、社会全体が救うべき異端と排斥すべき異端を振り分け始めているのだ。

レイ博士がポリコレのバッシング対象となるような差別的思想の持ち主だったとか、誰かに迷惑をかけるタイプの異端だったとか、そういう考察をしたいのではない。排斥されるべき異端は時代に応じてなんとなくの空気で決められる。レイ博士はそのなんとなくの空気の被害者だったというだけだ。

つまるところ、レイ博士が感じた「大勢からの悪意」をそのまま「悪い心」と解釈するのではなく、「異端を排斥して社会正義を実現させる善意の表れ」と解釈すれば、現代社会に適した描写になるのだ。

ここでひとつ、補助線を引く。「欠点を無理やり漂白する」ことは「異端を排斥する」ことと等しい。

なぜなら、個人の欠点は究極的にはその人間の個性であり、その良し悪しはその人間が所属する社会集団によって決められるからである。社会集団が良いとした個性はそのまま個性として尊重され、悪いとした個性が欠点として認識されるのである。悪いとされる個性は嫌われ、疎まれる。つまり異端である。

ゆえに、「欠点を無理やり漂白する」とその社会集団から悪いとされた個性の持ち主(=異端)がいなくなる。それは結果的に「異端が排斥する」ことと同じである。


以上の話をまとめる。まず、レイ博士の描写を簡潔に書き下すと、

レイ博士は「悪い心」をこの世から消し去るために、「人間を操る光」を作って世界を良くしようとした。なぜなら、レイ博士には大勢の「悪い心」に晒されてつらい思いをした過去があるからだ。

これを以下のように書き換える。

レイ博士は(他人の)欠点を無理やり漂白する(=異端を排斥する)ために、他人を思い通りにする圧力をかけて世界を良くしようとした。なぜなら、レイ博士には異端ゆえにバッシングを受けた(=欠点を無理やり漂白されそうになった)過去があるからだ。

レイ博士は善意によって他人を無理やり漂白しようとする悪役でもあり、そもそもは善意によって他人から無理やり漂白されそうになった被害者でもあるのだ。

ポリコレがただしいと信じる者やジャスティス戦士のような潔癖を求める人間が他人の欠点を無理やり漂白してやろうと、つまりは異端を排斥してやろうとバッシングにいそしみ、バッシングされて傷ついた人間が自身の潔癖を謳って他人の漂白を試みた。これが空の理想郷における悪役レイ博士の描写である。

もうひとつ付け加えるならば、現代で最も効率よく他人に害を加えられる手段は被害者ぶって相手を加害者として陥れることである。レイ博士の言動も行動原理も全くその通りである。被害意識を言い訳にしながら他人に害を加える存在。一億総被害者社会。レイ博士は現代を映す鏡なのだ。



大谷翔平という漂白されたヒーロー

次に、「欠点を無理やり漂白する」ことについて述べたい。

漂白された人間が気味が悪い。それは映画の中でも繰り返し描写されている。私も漂白された人間ばかりの世界は味気がないと思う。そう思う人間は私だけではないはずだ。だが、次のように質問されたとき、果たしてどのくらいの人間が「いいえ」と答えるだろうか。

「好ましくない言動」はただされるべきですか?

順を追って説明しよう。

まず、「異端を排斥することは良いことですか?」と質問して、すぐさま「はい」と答えられる人間は中々いないだろう。逆にすぐさま「いいえ」と答えられる人間の方が多いのが現代社会だ。

では「悪人を排斥することは良いことですか?」と質問したらどうだろうか?「はい」と答える人間がまだ大多数ではないだろうか。

もう少し進んで、「悪い心を持った人間を強制的に改心させることは良いことですか?」はどうだろうか。おそらく”強制的に”というフレーズに引っかかり「はい」と答えるのをためらう人間が多い。”強制的に”を外せばためらいなく「はい」と答える人間が増えるはずだ。

そう、「欠点を無理やり漂白する」のが良くないのは、”無理やり”だからである。また、私は”無理やり”を強調するために”漂白”という単語を意識的に使っている。”無理やり”がなければ「欠点を改善する」程度の表現になるだろう。映画だって「欠点を改善するのは良くない」というメッセージならば出しはしないはずだ。

レイ博士が目指していたのは「悪い心を持った人間を強制的に改心させること」だったが、それはのび太たちにとっては「欠点を無理やり漂白する」ことだった。欠点をひとりひとりの個性、宣伝文句を借りれば「らしさ」として認識したから「欠点を無理やり漂白する」ことはのび太たちにとって認められないことだった。

ここに映画のメッセージとして違和感を覚える。「悪い心を持った人間を強制的に改心させること」という悪役の大望に対して、のび太たちに起こった「欠点を無理やり漂白」されることはあまりにギャップが大きい。一応、ジャイアン・スネ夫・しずかちゃんの「欠点」をそれぞれ暴力・いじわる・強情としていたので「悪い心」と言えなくもないが…。

しかし、「悪い心」から「欠点」を幅広くとらえ直して「好ましくないこと」と言い換えれば理解が進む。「『好まれない』心を持った人間を強制的に改心させる」、「『好まれない特徴』を無理やり漂白する」。こうすれば違和感はなくなった。

ここで、最初の質問に戻る。「好ましくない言動」はただされるべきですか?

もちろん「ただされる」は「漂白」を言い換えたものだ。また、「好まれないこと」も「異端」と読み替えても良い。あるいは、寿司ペロでも不謹慎tiktokでも差別発言でも何でもよい。

漂白された人間が気味が悪いことは映画の中でも繰り返し描写されている。私も漂白された人間ばかりの世界は味気がないと思う。そう思う人間は私だけではないはずだ。だからこの質問に「はい」と答える人間は少ないと期待したい。が、しかし、言い方を変えただけですべての人間が「はい」と答える気がしてならないのだ。

その象徴として大谷翔平ディス炎上事件を挙げたい。

発端は以下のツイートだ。

https://twitter.com/iikagenni_siro_/status/1633693442487517186より)

なるほど下品だ。国民的ヒーローにしておっさんもおばさんもテレビにくぎ付けにしてしまう国民的アイドルである大谷翔平様になんということを言うのか。

このツイートに呼応して、天下の大悪党にしてnoteで小金稼ぎに勤しむ傍らでこの世のあらゆるネトウヨを陰で操る白饅頭が以下の記事を出した。

要するに二人とも、大谷翔平には「悪い心」「欠点」、すなわち「好ましくないこと」が見えなくて気持ち悪い。しかも現代社会がそういうヒーローを求めているので息苦しい。と言っているだけのだが(狂人の方はそれだけではないけれど)、炎上した。

私の考え方で言い換えれば、「大谷翔平は漂白されたヒーローであるため気味が悪い」ということになる。気味が悪いのは完璧超人であるかのように報道される大谷翔平だけではない。完璧超人を積極的に受け入れ歓迎する社会の雰囲気も、である。異端は排斥し、感受性豊かで繊細な魂の持ち主が増えている現代でそういう雰囲気が盛り上がるのは当然のことではあるが。

現代社会は「好ましくない」存在を排除する圧力が広く薄く存在する。漂白された人間の登場を強く望んでいる。それは上述した寿司ペロや不謹慎tiktokerをバッシングした精神性そのものである。実際にバッシングに参加したかどうかではなく、バッシングという名の私刑・漂白活動に違和感を覚えない精神性のことを言っているのだ。

映画では、欠点があるくらいがちょうどいい、欠点も個性の一部であるからそれでいいのだ。というメッセージを発信していたため、「好ましくないことを無理やり漂白する」ことが明白に否定されていた。洗脳として描写されていたこともあいまって、映画を観ていた観客もそう感じたことだろう。もしも大谷を称賛して狂人や悪饅頭をそしるならば、この映画で描かれた完璧な人間を称賛しなければ筋が通らない。

「好ましくないこと」を持った人間を受け入れよというメッセージに頷きながら、一方で「好ましくないこと」を全く持たないヒーローの登場を切望している。そんな人間は大勢いるだろう。それを気味が悪い以外にどう表現すればよいのか。

論点は「好ましくないことを無理やり漂白する」ことであるから「好ましくない」特徴をあとから漂白するのはダメだという反論もあるだろう。「好ましくないこと」を一切知らずに生まれ、成長し、それから世間の目にとまればよい、という反論だ。

しかし、それは産まれたばかりの赤子にレイ博士の「人間を操る光」をあてることと同義である。産まれたときから特別な環境に閉じ込めて、ある種の善意のみに接触させながら育てる。そういったことを問題視したのがカルト二世問題だったはずだ。

また、やはり、「好ましい」人間だらけの世界であれば私は気味が悪いと思う。私が凶暴ではなくおだやかで賢い人間となればそうは感じないのだろうか?ある種の人間らしさ、つまり「好ましくないこと」は人間には必要であるように思う。もちろん人間は全員犯罪を企てろという話ではない。


レイ博士に転嫁された悪行

以上、現代社会は、ポリコレやジャスティス戦士のような他人を思い通りにする圧力をふるいたがっており、それは善意に基づいて異端を排斥しようとすることに等しい。好ましい要素しか持っていない人間は気味が悪いことは示されればわかるのに、それでもそういったヒーローを求める矛盾した機運も強まっている。

これは私たちひとりひとりが持っている、「より良い世界で生きていきたい」という素朴な感情の集合体、あるいは空気感が生み出している。だからその存在に気づきにくいし、その空気感になじんでいる間は悪いこととも思わない。

この映画はこういった加害・被害・社会を覆う圧力をレイ博士というゆがんだ心の持ち主ひとりに押し付けている。

不特定多数の匿名者が作り上げている空気感を『狂気の科学者』というワードに閉じ込めて特別なものであるかのように描写している。

我々ひとりひとり、人間ならば誰しも持ちうる「悪い心」はいかにもな悪人が抱くものであると描写し、私たちの加害性を和らげている。

現代において、何をするにも効率がよいのは被害者ぶることである。この映画はそれを手助けしてくれる。他責性が生んだモンスター。私はこの映画を端的にそう評したい。


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