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サル騒動

先日、初めて生で立川志の輔の落語を聴くことができました。4年ぶりの長崎公演であったとか…。何年か前、最後に聴いた柳家小三治の噺と同じ落ちの落語を披露してくれて、「落語」という一つの文化・芸に普遍的に共有されるものがあることを感じました。ストーリーテリングでも、似た様なことがあって、インドの昔話として日本に紹介されたものが、かぐや姫を彷彿とさせるものがあったりします。チェスと将棋の様なものなのでしようか…。

既に、すっかり話題となることがなくなりましたが、憲法審査会で話題となった「サル騒動」に、本来なら腰を据えて語られ、議論されるべきことが本来あるのにも関わらず、表面的な騒ぎの様に現れる…火のないところに煙は立たないといったところでしようか…そんなことが繰り返されているのでしょう。

昨年(2022)年、堀川惠子の著作「暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ」(講談社)を読んで、政治学者として知られた丸山眞男が、1945年8月6日に広島に居たことを知りとても驚きました。文芸評論家の肩書きで著作のある加藤典洋が、その晩年に憲法9条について再考する著作を残しましたが、その中で南原繁の提案で東京帝大に憲法研究会委員会を1946年2月14日に、宮沢義俊を委員長に据え設置したことが紹介されています。丸山眞男はその委員を務め、そこで彼が発言したことが後に「8月革命説」と呼ばれるようになり、憲法学では一応定説とされているようです。

当初この委員会は「憲法改正に関し検討すべき諸問題」を決定し、その後幣原内閣の下で、3月6日に「憲法改正草案要項」が示され、敗戦国となって初の第22回衆議院選挙が翌4月10日に実施され、更にその1週間後の4月17日に「憲法改正草案」が発表される中で、その修正案作成に会の方針を変更した経過もあったようです。1946年は、敗戦後初めての元日に官報を通じていわゆる天皇の「人間宣言」も公表されていました。

東京湾の戦艦ミズーリの甲板で重光葵とダグラス・マッカーサーが日本の降伏文書に調印してから約14ヶ月後に、現在の日本国憲法は公布され、以来一言も改正されてはきませんでしたが、それほど短期間に憲法が公布された背景には、如何に昭和天皇の「戦犯としての処刑」を避けるのに必死であったかも、窺える様に思います。

憲法学者の樋口陽一によると、身分制的特権を持つ主体間での多元的に並ぶ権力の相互制限に留まるのが「中世立憲主義」とされ、「身分制」を否定し、諸個人が国家と向かい合う二極構造を前提とした上で個人の権利を保障しようとするのが「近代立憲主義」にあたるようです。この両者は「権力に対する制限」という点を共有しながらも、論理構造は異なっている…ということですが、乱暴な極論としては明治憲法は「中世立憲主義」により近く、日本国憲法は「近代立憲主義」により近いのだろうと思います。

根拠としては「皇族」との身分を憲法上唯一残してしまったからですが、その「近代立憲主義」により近く立つ日本国憲法において「中世立憲主義」的な部分が、やはり一条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」なのではないかと思います。

本来成熟した民主主義の国であるならば、憲法改正にあたって、憲法審査会で審議されるべきは、国の象徴としての天皇を、国民に統合する検討が少数意見として上がってくることが当然なのだろう…と考えます。

1951年9月8日、サンフランシスコで講和会議が開かれ、当時の宰相吉田茂が条約に調印しています。しかし、吉田茂はこの講和会議への参加を渋り、米政府の対日講和対策の責任者ジョン・フォスター・ダラスに念を押されて渋々参加していたようです。豊下楢彦の「昭和天皇の戦後日本」(岩波書店)にそのことが記されています。自民党の結党はその後のことで、1946年4月の衆院選で第一党の党首となった鳩山一郎が公職追放され、代わりに首相に就いた吉田茂が戦後内閣を担いますが、吉田内閣の下で憲法制定や講和条約の調印が終わった後、国務長官となったダラスの意向を受け、親米政権としての日本政府を維持することを主旨として、既に内閣を担っていた鳩山一郎が初代総裁となり自民党が1955年11月15日に結党します。

私はこれが本当によく理解できていませんでした。自民党とはそもそもそうした宿命の政党なのでしよう。米政府には吼えることがない。唯一、米国政府に楯突いたのは、鳩山由紀夫内閣の米軍基地移転で迷走した時期くらいのことではなかったのか…と思います。

加藤典洋が行き着いた一つの結論は、誤りを恐れずに記すと、その要旨は国連を中心とした安全保障体制の下で、国連の平和維持活動に、自衛隊を分割してその一部を参加可能とする憲法上集団的自衛権行使を容認する9条の改正と、外国の軍隊を国内に駐留させないこと、自衛隊を災害時の救援活動に従事させること等を明記するものであったと思います。国連憲章と日本国憲法に整合性を持たせた憲法9条改正案でした。

8月革命説は、日本国憲法は国民が制定したとするもので、敗戦を経た日本で主権の移動が生じたとことを説明するものだと思います。その契機にヒロシマで原爆投下を経験していた丸山眞男が語ったことがあると伝えられるのは、不思議と納得するものが私にはありました。ヒロシマの経験は丸山眞男にとりそれほどの経験出あったのだろうと腑に落ちたのです。しかし、その様な立場を日本政府が尊重するのならば、昨年の安倍内閣銃撃事件の悲劇を経た後に「国葬」など実施すべきではありませんでした。何らかの公的葬儀の開催やある程度税金の使用は認められたとしても、政府主催のセレモニーに留めておくべきであったと考えます。

ドイツは1945年5月に降伏し、憲法に当たる基本法が採択されるのは1949年9月頃だと思います。英米仏ソの4カ国統治のうち、旧西ドイツの基本法としてそれは成立し、1990年10月3日の統一後も、多少の手直しはあったようですが、現在も国家の基盤として機能しています。日本では沖縄や南千島諸島の北方領土が「日本」から分断され、その後遺症は現在にも引き継がれていますが、ヨーロッパとアジアの2つの敗戦国にはその歩みにやはり違いがあります。

憲法を歴史的に検討して改正を試みるとき、確かに東アジアの安全保障体制の緊張感が増しているとしても、国の象徴としての天皇をいつまで憲法に明記して維持するのか。将来的な皇室の廃止や皇族の国民統合は必要がないのか。憲法審査会ではそのような議論が本来なら欠かせないと私は考えるのです。ご批判は承ります。

添付の写真は、2018.8.23の朝日新聞配信記事から無断で借用いたしました。申し訳ありません。

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