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短編小説|バスタオル

 彼の部屋には、何度洗ってもにおうバスタオルがある。何枚かあるバスタオルのうち、一枚だけ。部屋干ししているからかもしれない。でも、他のバスタオルだって部屋干ししている。条件は同じだ。なのに、どうして。

 とても疲れて仕事から帰ってきて、シャワーを浴びた後にそのバスタオルにあたると、彼は気分が悪くなる。どん底まで落ちこむ。他のバスタオルがあれば迷わずそちらを使うけれど、におうタオルしかないときだってある。体が濡れたままで風邪をひくよりは、臭くて気が滅入っても水滴を拭き取った方がいい。

 六月の終わり頃、彼は仕事の後で、ガールフレンドのミイコと会った。ミイコはこの春、出版社に入社してきらきらした雰囲気をまとっている。奨学金を借りていて、それを返済するのが当面の目標だった。ミイコは結婚したがっていたが、奨学金を完済しないうちに結婚するのも嫌だった。渋谷のいつもの店でトマトのパスタを食べた後、彼はミイコにふられる。彼女は別に、彼と結婚したいわけではなかった。とても蒸し暑い夜、ぼろぼろになって、永福町の駅から徒歩13分の、やたらと森の近くにあって、むしろ森の一角とも思えるじめじめしたアパートに帰ってくると、彼は固いベッドに倒れ込んでうめき声をあげ、しばらくしてのろのろと起き上がってシャワーを浴びた。汗といっしょに、すべての現実を洗い流したかった。浴室から出て、タオルラックに例のにおうバスタオルしかないことに気づく。とどめをさされたように、その場にしゃがみこむ。中途半端な長さに切られた黒い髪からしたたり落ちた水滴が、いくつも彼の顔をつたっていった。

 水曜日に布のごみの日があって、朝、透明なビニール袋にそのバスタオルをぶち込んで、鼻をつまんでごみ置き場に捨てた。息を止めていても、鼻にまとわりつくような不快なにおいを感じてしまう。もう、限界まできていた。昼過ぎ、バスタオルはごみ収集車に回収されていった。彼は自分の部屋のベランダから、収集車が去っていくのを満足げに眺めた。

 それからというもの、彼はにおわないバスタオルで体を拭きつづけ、そのおかげか、人生はそこそこうまくいった。友人と共同でWEB制作会社を立ち上げ、デザイナーのカンファレンスで知り合った人と三年ほど付き合って結婚し、子供が一人できて、ローンで小さな家を買った。家には全自動洗濯乾燥機をおいて、バスタオルは常にふんわりと乾いた状態でラックに並んでいた。首都圏だけでなく、全国から仕事を受けた。

 その日は福岡で仕事があり、彼は博多駅近くのビジネスホテルに部屋を取った。チェックイン後にクライアントと合流する。いまいち話のかみ合わない打ち合わせ。お互いに本音を語っているようで実質何も語っていない会食。彼がホテルの部屋に戻ったのは午後十時を過ぎた頃だった。シャワーを浴びて、一日の疲れを流す。明るいバスルーム。水の勢いは強め。水温も熱すぎず冷たすぎない最適な温度に調節できて、とても気分がよかった。シャワーが終わり、バスルームから出る。きっちりとたたまれた真っ白なバスタオルを手に取って、顔をうずめるようにして拭く。不快なにおいが、彼の鼻を刺激した。「うっ……」と思わずうめき声をあげて、彼はタオルから顔を離し、おもむろにもう一度顔を近づけてにおいを嗅ぐ。におう。生乾き特有のにおいがする。こんなに白くて清潔そうなタオルなのに、どうして。

 舌打ちをしながら、他のバスタオルを探すが、部屋にあるバスタオルはこの一枚だけのようだった。しかたがない、とあきらめて彼はにおうバスタオルを使う覚悟をする。息をとめて、なるべく臭気を感じないようにして、顔や短い髪を一気に拭く。水滴を吸い取って湿り気をおびたバスタオルは、更ににおいを増したようだった。

 顔をしかめながらも、彼は奇妙な懐かしさを感じていた。以前も頻繁にこのにおいを嗅いでいた気がする。ここ何年もの間、彼は乾燥機でしっかりと乾かされたバスタオルしか使ってこなかった。においは彼の頭の中で時間をさかのぼり、ある場所の記憶と結びついた。あの、永福町の森の近くのアパート。突如として、あのアパートと、ミイコの記憶がよみがえった。

 ミイコとはじめて会ったのは、たしか彼の大学での最後の年だった。映画サークルの集まりでチェーン居酒屋で飲んだ後、まだ帰りたくなかった何人かが、偶然出合ったミュージカルサークルの一行を加えて、十数人の集団になって夜の散歩に出かけた。はじめは神田川沿いをあてもなくぞろぞろ歩き、だれかが、まだ桜が咲いているかもしれないといって、善福寺川の方まで移動した。桜は咲いていなかった。深夜のコンビニに寄って、思い思いにドリンクやアイスを買い、川沿いのベンチや手すりや名前のない適当な場所に腰かけて、名前を知らない花や木を見た。両岸をコンクリートで覆われた川から、暗い水のせせらぎが聞こえた。たまにドボンという深い音がする。淵で魚が跳ねる音だろうか。もう致命的には冷え込まない、という春の夜の安心感が、学生たちから時間の感覚や、明日のことを考える能力を奪っていった。

 そうしてだらだらしている時、彼女と目が合った。彼女は川沿いの草むらから唐突に飛び出した岩に座って、なにやら口元をくちゃくちゃと動かしていた。彼はスミノフの瓶を片手に、友人たちの会話をぼんやりと聞いていたが、それより、名前も知らない彼女の口元の動きが気になっていた。突然、彼女は口をすぼめると、唇から薄いピンク色の風船を生みだした。今時、風船ガムを噛んでるやつがいたのか、と彼は驚く。目が合って、慌てて視線をそらす。

 学生の集団が動き出して、彼はなんとなくそれについて行った。集団がどこへ行こうとしているのか、だれも知らなかった。ただ、運命に身を任せるように歩いた。歩道沿いの灌木の茂みの中に丸い二つの点が浮かんでいて、それは丸々とふとった猫の両目だった。猫は歩道のわきで、学生の集団が通り過ぎるのを、百鬼夜行に行き合った町人のように、口をぽかんと開けて眺めていた。

 彼は猫の前で立ち止まり、その目線の高さまでそっとしゃがみ込むと、猫の鳴きまねをする。お世辞にも、うまいとは言えない。猫はぽかんと開けた口をさらに開け、丸い目をさらに丸くした。逃げようか、逃げまいか、生存をかけた判断を下すために脳の中で目まぐるしく情報が行きかう。そこに、列の最後尾をゆっくりと歩いていた彼女がやってきた。彼女は突然、彼の隣にしゃがみ込むと、なんの前触れもなくスムーズに風船ガムを膨らませた。達人の技と言ってよかった。猫の鼻先まで大きく膨らむと、風船はぱちっとはじけた。仰天して、猫は灌木の中に逃げ込み、向こう側の草むらに飛び出すと、暗闇がそのふとった体を隠すまで、弾丸のようなスピードで走っていった。それを見て、二人は声をあげて笑う。「なに噛んでるの?」と彼が聞くと、彼女は口のまわりにガムをへばりつかせたまま、「バブリシャス」と答えた。

 学生の集団から置き去りにされた彼とミイコは、善福寺川沿いをしばらくさまよって、永福町にある彼のアパートにたどり着いた。春の終わりとはいえ、かなり冷え込んでいた。

 そんなことを思い出しながら、彼は全身を一通り拭きおえる。気がつくと、清潔なビジネスホテルの一室で、とんでもなくにおうバスタオルができあがっていった。永福町のアパートで使っていたバスタオルを、余裕で上回るにおいだった。こぎれいな部屋の片隅に、雨に打たれて濡れた獣が潜んでいるような悪臭だ。どうしてこうなったのだろう。

 タオルを交換してもらおうかとも考えた。バスタオル側の問題としか思えなかったから。でも、ホテルの従業員を部屋に入れるのもはばかられるほど、においは強烈だった。なんとか穏便にこの場をおさめたかった。部屋の小さな窓を開ける。隣のビルの壁面がすぐそこにあって、ろくに風が入ってこない。何も改善されなかった。そうしている間にも、においは一層激しさを増したように思えた。バスタオルをタオルハンガーに放り投げるようにして掛けると、彼はベッドの端に腰かけた。一旦落ち着く必要があったし、なるべく、タオルとの距離を取りたかった。

 ベッドの端で、彼は両手で頭を抱え込んで、目をつぶった。繊維の奥深くに封印されていた魔物を解き放ってしまったのだろうか。においは、単に不快であることを通りこして、頭痛や吐き気を催させるほどにまでエスカレートしていた。もはや、異臭と言っていい。隣の部屋から、薄い壁越しにくぐもった声が聞こえる。それはやがて男女二人の話し声だとわかるようになった。はじめはひそひそと遠慮がちに、次第に、大声で。そのうち、逆側の部屋からもバタバタという物音が聞こえ始めた。においが、隣までもれているのだろうか。次第に不安になってきて、彼は耳をそばだてる。隣の部屋の扉が乱暴に開く音がして、だれかが廊下をあわただしく走っていった。逆側の部屋からも人が駆け出していったようだ。

 彼はベッドの上で、膝を抱えてうずくまって、じっとしていた。息をするのが苦しかった。薄汚れた獣が、皿にいっぱいの腐ったミルクをなめているようなにおいが部屋中に渦巻いて彼を包み、換気口から、ドアの隙間から、外界に漏れ出していた。

 電話の呼び出し音が鳴り響く。まるで彼を咎めるように。
 びくっとして、音の出所を見る。
 ベッドサイドに備え付けの電話が鳴っている。
 フロントまで、騒ぎが伝わっているのだろうか。
 何度も呼び出し音が鳴る。受話器をとることができない。この状況を認めたくなかった。
 数分間、繰り返し、執拗に鳴った後、電話はぴたりと止んだ。

 電話の音が止むと、一転して、部屋に異様な静けさが訪れた。フロアから人が退避しきったのかもしれない。従業員がやってくるのだろうか。咳き込みながら震えている彼の耳に、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。一台、また一台、博多の街中から、緊急車両がこのホテルに集結しているようだった。

 明日の朝の飛行機で、東京に戻らなければ。彼の頭の中に、突然そんな考えが浮かんできた。打ち合わせの結果を資料にまとめて、デザイナーに指示を出さなければならないし、残っている設計資料も片づけなければ。空港で、家族にお土産を買う必要もある。

 力を振り絞ってベッドから立ちあがり、息を吸わないようにしてタオルハンガーのバスタオルを恐る恐る手に取る。真っ白だったバスタオルは、いまや森で拾った正体不明の動物の死骸のように見えた。息を止めたまま、急ぎ足でタオルを窓際まで持って行く。窓から外に投げ捨ててしまえばいい。それですべて、なかったことになる。目眩がして、脚がもつれ、彼はベッドに倒れこむ。これ以上動くことができなかった。

 苦しかった。思い出したように、慌てて息を吸う。バスタオルが、ベッドに横たわる彼の鼻先にあった。意識が遠のくほどのにおいが、彼の鼻を伝って、脳に到達する。酸素が足りないせいだろうか、混濁した意識の中で、彼は妙な心地よさを感じていた。悪臭の中に、暗い夜の川のにおいがする。湿った草のにおいや、その中から姿を現した野良猫のにおいも。そして、一筋の甘いにおいを感じる。かすかなグレープの香り。これは、あのときミイコが噛んでいたバブリシャスのにおいだ。そう気づいた途端、彼の鼻先でピンク色の巨大な風船がぱちっとはじける。仰天して、背を向けて一目散に逃げだす。暗闇を求めて。暗闇が、彼の体を隠すように。弾丸の速さで草むらを駆け抜け、安心しかけたその時、ドンという音がした。だれかが彼の部屋の扉を叩く。それと同時に、全身に強い衝撃を感じた。暗闇の先に車道があった。走ってきた車に跳ねられた猫は、茂みの中に吹き飛ばされて、しばらくして息絶えた。だれもその死骸を見つけることはなかった。

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