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短編小説|壁と広場

 列車が街に近づくにつれて、車窓から見える風景の中に赤茶色の家々が増えていって、ついにはすべてが赤茶色になった。「これがマラケシュだよ」サミールがいった。ぼくはカサブランカで会ったトシさんが、マラケシュの街が赤茶色なのは、実は赤茶色の家以外建てちゃいけないって条例があるからだ、といっていたのを思い出していた。マラケシュの駅に到着すると、サミールは空腹だったので、ぼくたちは駅舎の2階にあるカフェでクロワッサンとオレンジジュースの遅い朝食をとった。隣の席に座っていたドイツから観光に来た3人の青年にサミールが話しかけて、少し雑談した。サミールが見たことのある、ドイツ製洗濯機のテレビ・コマーシャルの話で一通り盛り上がった。そのあと、ぼくとサミールはタクシーをひろって赤茶色の砂っぽい街の中心に飛び込んでいった。

 ジャマ・エル・フナでタクシーを降りると、きつい匂いが鼻を突いた。生きた動物と死んだ動物の発する臭気がまじって、広場中を覆っている。サミールがタクシー運転手と値段のことで口論になっているのが聞こえた。果物の屋台や、占い師、土産売りなど、観光客の目を引きそうなものはすべて無視して、ぼくたちは広場の端にある<カフェ・ド・フランス>まで歩いて行った。広場を一望できるこのカフェに、スペインの作家が現れるはずだった。その作家の、アフリカを題材にした幾編かの神秘的な小説は、ぼくのここ数年の研究対象だった。彼は現在、創作をやめてひとりマラケシュで隠遁生活をおくっていて、午後には必ずこのカフェに姿を現すという噂だった。わざわざマラケシュまでやってきたのは、彼に取材するためだった。

 カフェの隅の席に陣取って、ミントティーを飲みながらやってくる客一人一人を観察して、ぼくたちは数時間を過ごした。スペインの作家は一向に姿を見せない。サミールは隣の客やウェイターにせわしなく話しかけていたが、今ではよそのテーブルでトランプに興じていた。そのまま太陽が傾いてきた。すぐに会えるとは期待していなかったが、それでもぼくは次第にイライラしてきた。

 サミールに説得されて一旦カフェを後にし、今晩泊まるホテルにチェックインして、再びジャマ・エル・フナに戻った。夜が近づく広場は熱気を増していた。焼き肉や揚げた魚の屋台がどこからかずらっと出現し、広場中に立ちこめた煙が、真っ白なライトに照らされて夜の中を漂っている。光ってせわしなく動くタイプのおもちゃを売る露天商が、あちこちで子どもたちを集めている。きらきら光ってまるでディズニーランドみたいだ。ぼくは凝りもせずに<カフェ・ド・フランス>に戻って、またスペイン人を探したが、やはり姿はなかった。

 コーヒーを注文してしばらく粘ったが、しびれを切らしたサミールは、ナイトクラブに行こうと言い出した。マラケシュに来てナイトクラブに行かない手はないんだ、スペイン人なんかよりも大切だ、といった。君はぼくのガイドだろう、何をするかはぼくが決める、と断ったが、サミールは、取材なんていつでもできるが、君とぼくがマラケシュのナイトクラブで今日踊れるのは今日だけだ、といってきかなかった。そんなことで揉めているうちに、カフェの閉店時間になって、サミールは喜んで支払いを済ませた。

 いつの間に電話番号を交換していたのか、サミールは駅で出会ったドイツの青年3人を呼び出して、いっしょにタクシーでナイトクラブに向かった。ジャマ・エル・フナを離れて郊外の方へしばらく走り、ヴィラ風の豪奢な家々が並ぶ街区を抜けて、左右を長い赤茶色の壁に挟まれた通りに入った。壁の向こうは全部ナイトクラブかカジノさ、ラスベガスの次にデカい夜の街だ、とサミールはいった。ドイツの青年たちが仲間内で何かささやきあって笑っていた。

 しばらくして、ぼくたちは壁をくぐり、椰子の木が等間隔に並ぶ小路を通って車寄せでタクシーを降り、ひと際大きくてきらきら光っているナイトクラブの、真っ赤な階段でフロアに入っていった。とんでもない音で床が揺れていた。レッドブルの缶の大きな模型の向こうにステージがあって、DJが曲をかけている。その周りで、ピエロやバニーガールの格好をしたやつらが踊ったり、パッドを叩いたりして騒いでいる。天井からワイヤーでつるされたダンサーが逆さまになって、溶液の中に浮かんでいるみたいに踊っていた。音楽が盛り上がってくると、スモークの中を色とりどりのレーザーが飛び交い、ステージで火花が散った。フロアには欧米からの観光客やら金持ちのモロッコ人やらが入り乱れ、カウンターでは酒とレッドブルが混ぜられていた。サミールは酒を飲まなかったが、踊ることに酔っていた。腰を落として腕をまっすぐ伸ばしてゆらゆらと動かすエクササイズのような奇妙なダンスを踊って、それを見て爆笑していたドイツの青年の中の一人に、ふらふら近づいてきた知らない女が胸を押しつけながら話しかけて、彼らはそれにつられてフロアの端の方へと去っていった。MCが英語とフランス語で、オランダのナンバーワンDJの登場だ!と叫んだ。ステージにスキンヘッドの全身黒で統一した男性が現れて、フロアから歓声が上がった。オランダのナンバーワンDJはUSヒットチャートの有名曲を連続でプレイし、みんな大いに盛り上がっていた。サミールはまだ腰を落とした踊りを続けていた。踊りながら、まったく幼稚な選曲だよ!と叫んだ。ぼくはとても疲れてきて、フロアを離れて2階へと逃れていった。

 2階は少し落ち着いていた。ソファがあって、ドレスアップした金持ちがシャンパンを飲みながらくつろいでいた。ぼくは空いていた席に腰かけて、下のフロアの騒ぎに目をやった。フロアにいた時よりも、クラブ全体がひどく小さく思えた。壁に囲まれた小さな広場の中に、光と音と人の渦がぐちゃぐちゃになっている。いつの間にかサミールが台に乗っかって踊り、周囲ともめて引きずり降ろされていた。サミールをガイドに選んだのは失敗だったかもしれない。ぼくはいつの間にこんな場所へ来てしまったのだろう。腕時計を見ると、午前3時を過ぎていた。顔を上げて周囲を見回すと、隣の席に蝶ネクタイをつけた男がどかっと座っていて、並んで座っている赤いドレスの女の腰に手をまわして、もう片方の手でシャンパンのグラスを口元へ運ぶ。その顔を見てはっとした。彼こそがぼくの求めていたスペインの作家であった。写真を何度も見ていたから、間違いない。やっと会えた。やっと会えたが、<カフェ・ド・フランス>に静かに佇む神秘的な作家は消え去ってしまった。彼はシャンパンを飲み干し、隣の女に話しかけて大声で笑った。

 ぼくは彼に話しかけなかった。これ以上、このマラケシュの小さな広場をかき乱したくなかった。そもそもマラケシュの街もスペインの作家も、ぼくが作り上げた幻想に過ぎないように思えた。しばらくフロアを眺めていた。そのあとでフロアに降りていって、サミールに奇妙な踊りを教えてもらって、流れにまかせてぼくも踊った。明け方になって、ぼくたちはタクシーでホテルに戻る。ドイツ人たちはどこかへ消えていた。太陽が昇ってきて、その光をうけて長い壁がうっすらとピンク色に輝いている。果てしなく続くかと思われた壁がふっと途切れて、荒涼とした土地がどこまでも広がった。街の賑わいが嘘だったかのように。ずっと遠くに雪をたたえた山脈が横たわっているのがうっすらと見えた。「サミール、どこか南の方へ行こう。エッサウィラか、それ以外のどこかへ」とぼくはいった。「アガディールへ行こう。いいナイトクラブがある」と彼はいった。

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