短編小説|フレー厶

 霧が立ちこめる港湾都市の一角。なだらかな坂になった通りに、白い西洋風の建物が並んでいる。そのなかでも特別年季の入った3階建ての地下、ひっそりと営業しているバーにぼくはいる。同じ丸テーブルには、一人の小柄な女性がいて、この人は横山さんといった。中学校の頃の同級生で、たしか一度いっしょに保健委員になったことがある。中学を卒業してからは、今日まで会ったことはなかった。昔と変わらないおかっぱ頭をしている。
 ぼくの前にはグラスが置いてあって、泡のほとんど消えたビールが半分ほど残っている。横山さんの方にはカクテルのグラスと灰皿があって、灰皿の中には少し吸い殻が入っている。彼女は煙草を吸っていた。煙が、ぼくの鼻先を漂っている。ぼくは、自分も無性に煙草が吸いたいことに気づく。しかし、そのことを彼女に伝えることはしない。彼女も無言でいる。

 地上階にある入口の扉が軋みながら開く音がして、だれかがバーへの階段をゆっくりと降りてくる。長身の若い男が、頭を低くして店内に入ってきた。俳優の東村真之介だ、とぼくは気づく。最近ドラマや映画でよく見かける、流行の俳優だ。今週末、主演したアクション時代劇映画が公開されるので、ここ数日テレビに出続けている。東村はにぎやかなバーを見回し、ぼくたちを見つけると、大股で店内を切り取るように歩いてぼくたちのテーブルまでくる。やあ、と気楽な感じの挨拶。映像で見るよりも、大柄で迫力を感じる。

 遅れてごめんな、と言って東村は席に着く。ステージでは演奏が始まっていた。黒い正装をした男たちが、ヴィオラやチェロなどの弦楽器を弾いている。曲は最近のJ-POPのメドレーのようだが、独自のアレンジがされている。どうやらモルゾ音階で弾いているらしく、異国風で物悲しい雰囲気が漂っている。演奏が終わると、東村が大きな手でゆっくりと拍手をしてするどく口笛を吹いてはやし立てる。その反応はちょっと場違いじゃないか、とぼくは思う。

「では、はじめますか」ここで、横山さんがはじめて口を開く。
 保健委員がクラスを整列させて健康診断に向かわせる時みたいに、小さいがよく響く声だ。彼女は、ぼくと東村を交互に見る。ぼくが何か話すべきかためらっていると、いかにもやる気に満ちた顔の東村と目が合った。彼はにっと笑うと、「俺から話そうか」とぼくに言う。途端に先ほどまでの親しみやすい感じが鳴りを潜め、いかにも深刻そうな表情になって語りだした。

<東村の夢>

 これは俺が2日前に見た夢だ。
 俺は家の近くをジョギングしていた。いつも決まったコースを走るんだが、その日はなんとなく、違う道を通ってみようと思って、普段は曲がらない角を曲がってみた。そこも代り映えのしない住宅街だったんだが、しばらく走っていると、やたらと明るい建物が見えてきた。近づくと、それは大きなドラッグストアだった。このあたりにドラッグストアがあるなんて知らなかった。広い駐車場がついていて、店内も明るく、品ぞろえも豊富そうだ。ちょっと覗いてみようと思い、店内に足を踏み入れると、ほどよく冷房が効いていて、ジョギングで火照っていた俺には心地よく感じた。
 一通り店内を見て回ったが、いつも使っている駅前の小さなドラッグストアよりも品数が多く、値段も安く、おまけに店員の愛想もよさそうだった。今度から少し遠くてもこちらを使おうと思った。そして、ドラッグストアを後にして、また少し走ると、見覚えのある道路に出た。自分の家に通じる大通りだった。しかも、家から徒歩5分ほどの地点だ。つまり、このドラッグストアは家からすぐ近くにあったのに、その存在を知らなかった俺は、わざわざ遠くの、品ぞろえも悪く値段も高い方に通っていたってわけだ。今の家に引っ越してもう半年ほど経つんだが、家の周りの地図は最初によく見とくべきだなと思った。

 語り終えると、東村は一息ついてぼくと横山さんの方を見る。
 まるで主役オーディションの結果を待っているように。
「まともで、安心感があるよ!」そんな感想が思わずぼくの口をついて出た。
「なかなか筋が通ってる」横山さんがつぶやき、「若干、意外性があるのが残念ね」と付け加えた。

 その時、ぼくたちのテーブルにだれかが近寄ってきた。派手な金髪をした女で、白いシャツと黒いパンツを身に着けている。どうやらバーのウェイターのようだ。彼女は木製の盆にのせて、ガラスでできたカラフェのようなものを運んできた。カラフェの中では、青い液体が怪しげに揺れている。だれも注文していないドリンクだった。彼女は、ぼくたちの注目が十分に集まっているのを確かめると、あらかじめ録画された映像のように説明をはじめる。
「この液体を自分のグラスに注げば、あなたは不幸になります。しかし、他人のグラスに注げばあなたは幸福になります。ただし、注がれた人は不幸になるでしょう」
 彼女がそう言うと、東村が吹き出して、腹を抱えて、椅子から転げ落ちそうになりながら大声で笑いはじめる。横山さんまでもが、こらえきれないといった風に笑っている。ぼくもつられて笑う。
「やってみようぜ」東村はそう言うと、盆の上のカラフェを乱暴に掴んで持ち上げ、ぼくのグラスに注ごうとしたかと思えば、寸前で手を止めて、なめらかな額の上で整った眉をぴくぴくさせておどけた表情をした。そして、今度は横山さんのグラスに注ごうとする。そんなフェイントを何度か繰り返した末、東村はカラフェを自分の口元に持って行くと、なんの躊躇もなく青い液体を一気に飲み干す。
 予想外の出来事に、ウェイターが甲高い悲鳴をあげ、盆を取り落とす。床に落ちた盆がからからと乾いた音を立てる。
 東村は、きょとんとした顔をしている。自分の行いは、喫茶店でコーヒーを飲むくらいに当たり前のことだと言っているように。
 店内を静寂がつつむ。何事も起きない。
「な」と東村が口を開きかけたとき、その顔が徐々に腫れてきているのに気づく。最初は少し頬が膨らんでいる程度だったが、やがて、顔面の肉が彼の意志とは関係なく動き始め、沸騰するようにぐつぐつと波打ち、そのぐつぐつが顔だけでなく全身の肉にまで広がっていった。しまいに、東村は溶けて青い液体になって床に広がっていき、しばらく床の上でぐつぐつと煮えていたが、やがて蒸発して消えてなくなってしまった。これはまずい、とぼくは思った。彼のマネージャーか所属事務所に、連絡した方がいいだろうか。「次はあなたですよ」と横山さんがぼくを急かす。まるで何も見ていなかったように。
 そうか、ぼくの番か。ぼくは乱れた呼吸を必死で整えると、語りだした。

<ぼくの夢>

 これはぼくが昨晩見た夢だ。
 久しぶりに職場に出社することになって、ぼくは朝、駅に向かった。ここ最近ずっと在宅勤務だったから、久しぶりの通勤だった。ホームで待っていると電車がやってきたが、ぼくはその電車には乗らなかった。5分後にくる電車の方が、始発駅の関係上、空いていることを知っていたから。5分後の電車は案の定空いていて、ぼくは座ることができた。
 読書をしようとしたけれど、面倒になってスマートフォンを取り出してパズルゲームをした。おじさんを導いて迷路から脱出させるゲームだ。順序を間違うと、おじさんは水に落下しておぼれたり、降ってきたマグマを浴びたり、岩に押しつぶされたりしてゲームオーバーになってしまう。おじさんにとって、とても災難なことだ。朝早く起きてとても眠かったから、ゲームではなく読書をしていたら、ぼくは寝ていただろう。読書には確実に催眠効果がある。そんなことを考えるでもなく考えていると、もう職場の最寄り駅に到着していた。
 電車を降りて、職場のビルに向かい、エレベーターに乗ろうとすると、エレベーターホールに長い列ができていた。いつもはこんなに混んでいないのだが、どうしたのだろう、と近づくと、6基あるエレベーターのうち1基が故障を起こしてメンテナンス中ということだった。他の5基は平常運転なのだが、1基故障しただけで相当人がたまってしまうのだった。一時期は在宅勤務の影響で人が減っていた職場だったが、もう結構人が戻ってきているんだなと感じた。

「すばらしい! とても凡庸で、面白みもなく、落ち着く夢」
ぼくが語り終えると横山さんが興奮気味に評価する。
「ありがとう」ぼくもうれしくなった。
「ところで、もうこんな時間だけど」横山さんが壁にかかった時計を見ている。
 時計の針は8時50分を指している。
 まずい、とぼくは思う。今日も9時までに出社しなければならないのだった。
 ぼくはバーの代金を払おうと財布を取り出すが、財布の中は小銭だらけで、指が上手く動かずに小銭が取り出せない。
「今度必ず払うから」とぼくは彼女に言うと、立ち上がる。
 時計を見ると、8時52分だった。
 ぼくは地上に出るための階段をのぼりはじめるが、脚がもつれてうまくのぼることができない。這いつくばるようにしてなんとか踊り場までたどり着くが、見上げると出口の代わりに、また次の踊り場があるだけだった。
 その踊り場にはフレームに入った写真が飾ってあった。這いながら近づいていって見上げると、フレームの中に東村の顔があった。ハンサムな顔でにっこりと白い歯をのぞかせてこちらに笑いかけている。彼の手元には、いろいろな種類の歯ブラシが握られていた。東村は、家の近くのドラッグストアでいろいろな歯ブラシを安く手に入れることができたのだ。
 ポケットからスマートフォンを取り出して時間を見る。8時57分になっていた。踊り場から踊り場へ、もつれる手足でゆっくりと蜘蛛のような格好で進んでいく。上手く身体が動かず、何度も地面に倒れこむ。
 この分ではもう9時を過ぎただろう。
 もがきながら、ひどく喉が渇いているのを感じる。
 そうだ、ぼくがカラフェの水を飲んでおけばよかったのだ。
 だれも不幸にすることなく、フレームの中で通勤電車に乗れたのだから。

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