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21歳、誕生日の夜に考える浮気容認理論。

1年前のちょうど今頃、朝から晩まで遊園地にディナーにと友人に盛大にお祝いしてもらった私は、記念に、と招待してもらったバーでまさかのぼったくりをかけられ逃亡していた。(そのとき助けてくれたバーテンと付き合い即別れたことも含め)今でも笑ってしまうほど情けない華のハタチの始まりだ。

まあ一年を通して、この年頃の最重要トピックである恋愛はひどかった。とにかく酸いも甘いも様々な経験をした。私の恋愛対象は男性なのだが、まあ浮気をしている人は多く、もしかしたら自分は不倫してたのかもしれないなーとか思ったりもする。

その中で気づいたこと。

人は飽きるのだ、人に。どんなに美人な彼女でも、どんなに美男な彼氏でも、何か相手の心に触るものがあったのかもしれない、と。

視座が上がれば上がるほど、最高!魅力的!と思う人は変わる。互いが互いを高め合う存在であり続けられることは珍しいのに、人が一人の人をずっと好きでいることが難しいのは当たり前だ。

人は常に刺激を求めるのだ。だってこんなに私の世界も変わった、たった一年で。あのバーテンさんともう一回付き合える?いや、いいかな、、、と答える自分がいる。

そもそも男女が互いに唯一の相手を思いあうのが絶対正義的な考えはどうなんだろうか?常識にとらわれない生き方を推奨する現代社会において浮気や二股を騒ぎ立てている方がおかしいのでは?

優しい、話を聞いてくれる、だけじゃ物足りない。私は恋人も友人も常に前を向いて走り続けていてほしいし、彼らに求められる人間でありたい。



そう考えると浮気を自分の中で許容できてしまう。視座が上がって新たな刺激を求めた人が、内緒で他に手を出してしまっただけなのかな、と。だって人はいい人であることを好むけれど、好きだった人は傷つけたくないし、失敗も考える。そんな時、内緒にするって何よりも安全な手段な気がする。倫理的正当性はさておき、当たり前、当然の感覚だろう。



選んでもらえたら相手に良い刺激を与えられる存在であったということ、逆はただ、その逆なだけだ。もちろん恒久的なスパンでの話はしていない。

ここまで来て、私の脳内には「視座の上昇スピードのすれ違いに起因する浮気容認理論」が完全に出来上がった。そして、おお!それならもっと一妻多夫制だとか多夫一妻制も事実婚もありありだし、離婚もありありだよね、と。


うーんでも、と。その流れで離婚や結婚が責め立てられることのない世の中は、すなわち大人の考えが席巻した世界だ。極端な話『あなたのパパは刺激が足りなくて、、、ちょっとダメ男だったの』と離婚の原因を話した時、自らの父親を否定された子どものアイデンティティーはどうなるのだろう。


まあそりゃそうだ、浮気まではさておき不倫となると。大人として生きる個々人の選択と友好関係の自由と、子育てをする立場でのパートナー選びや、親としての責務の重要性は簡単に比較できるものではない。ようやく私は視座の上昇と友人関係の変化、その選択を理解しただけだったのだ。

散々こんなことを書いておきながら、来年の今頃は、不倫も浮気もとんでもない!と叫ぶくらい、一人の素晴らしい人と恋に落ちていたい、と思っていたりもする。それほどに未だ自分が夢見る夢子ちゃんであることに気づかされる、21の初夜である。

 #ひとりごと #誕生日

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