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【論考】〈クィア〉なタバコ、生政治に逃走線を引く

 批評家である浅田彰の還暦祝いがゲンロンカフェであった。60になって、もう一度蘇る、子供になるというのがあるらしいが、自分は大人になることから逃走した、いやおっさんになりたくなかったのだと浅田彰は言う。そこから繋げて哲学者である千葉雅也の喫煙に対して、喫煙する権利はあるものの、タバコ臭さというのは、おっさん臭さの主要な部分であるからね、と「タバコ臭さ」と「おっさん臭さ」の関連を指摘する。

 この前、友人のシャンソン新人コンテストを見に行った。日本シャンソン界隈を詳しくは知らないが、来る客来る客、歩みが遅く、肌に年代を感じる人ばかりであった。協賛も読売新聞といったところだ。ここではシャンソンの曲に対しての感想は言わないが、会場の雰囲気は閉鎖的でタバコ臭く、埃っぽく湿っていた。

 私がタバコで連想するのは、やはり中年男性が群がり、タバコを吸うというホモソーシャル・コミュニケーションである。これは後でジェンダー・セクシュアリティ的に繋ぐとして、ホモソーシャルの性質は「ホモ=同じ」に因んで考えると、「同質性で繋がる=強要する場」と言える。これは批評家の東浩紀も「今までそうであった、それを変えていきたい」と言っている事柄だ。

 以上、3つの文章が私の「タバコ観」であった。自分自身は呼吸器官に慢性的な疾患があるので、吸わないだろうなぁと思っていたが、何の流れか吸う機会が訪れた。そしてその機会と、最近考えている「生政治での逃走線」、「〈クィア〉のNo Future性」が絡み合い、それらは「〈クィア〉なタバコ」という概念へと総合されていった。このnoteは、その足取りを書いたものである。

 まずは「生政治」から行こうではないか。生政治は、フランスの哲学者ミシェル・フーコーが考えたものである。フーコーは権力の在り方を見ていった人で、近代におけるパノプティコン、規律訓練等の話はよく知っているのではないだろうか。これらは「人間の内面」に規範を作り上げるというものだが、もう一つ近現代に対して「生政治」、人間の内面ではなく外面、直接、身体、物理的にアプローチする統治の仕方があると指摘する。たとえば病気の発生率を薬、ワクチンで抑えるとか、出生率を高齢出産での不妊治療で上げるとか、うつ病を診療でなく薬でコントロールするなどが当てはまるだろう。その即物的コントロール型統治が過激化すると、脳科学の成果による薬での情緒管理社会が来るかもしれない。でもそれはユートピアなのか、ディストピアなのか。ただ言えることは、某エセ理性設計主義が行きついたのは、ディストピアであったということだろう。

 タバコを吸ったのは、そのシャンソン新人コンテストの後に友人宅で飲んでいる時であった。そこで飲んでいた芸術関係の彼らが、ベランダでタバコを吸っていたのである。その光景は自分にとってかなり新鮮であった。(自分の圏内で吸っているのは、サークルのヒッピー風の先輩だけだったから)自分はその時まあまあ酔っていて、部屋とベランダとの境界が曖昧だったのだろうか、「タバコっておいしいの、」と私はその境界をふらりと越境した。しかしそこはシャンソンの会場のような閉鎖的で埃っぽい感じはなく、夜空に開いていて涼しい風が吹いていた。また時は午前3時で、盗んだバイクで走り出すような、そんな逸脱による解放感でもあったのだろう。(これ以上は情景がチープになりそうなのでやめておこう。)

 一番初めに紹介した批評家、浅田彰の著書に『逃走論』というのがある。還暦祝いでの「大人になることから逃走した」からわかる通り、この本は浅田彰的生き方の指南書なのであろう。そこでやはり気になるのは、閉鎖的社会に対してどう逃走線を引くかである。この逃走線をどう引くか、それを考えていたのがフランス現代思想と言ってもいいだろう。フーコーも生政治、政府による物質的なコントロールからいかに逃走できるか、それを考えていたのだった。

 現代思想を嗜んでいる人なら「異性愛規範」の存在は自明に扱っていいだろう。またよく目にするだろう〈クィア〉とは、この「異性愛規範」から逸脱する、規範によって逸脱とさせられたジェンダー、セクシャリティのことをさしている。別に大雑把にLGBTと捉えてもいいが、規範からの逸脱を肯定的捉え返していると捉えた方が〈クィア〉の真価を掴めるだろう。また〈クィア〉には色々な側面があるが、今回はクィア理論家L.エーデルマンの「反社会性論」的に見ていこうと思う。

 千葉雅也は『欲望会議 性とポリコレの哲学』でこう語っている。「エーデルマンの『No Future』という本はかなり挑発的です。クィアであることを徹底するんだったら、もうとにかく社会の未来なんてクソ食らえだ、というかたちでアンチを突き付けるんだと、」「子供を産んで人類の存続に貢献しましょうというのとぶつかるのがクィアな欲望なのであり、基本的にクィアであることはNo Future(未来なし)を宣言することなんだ」と。これはよく「反社会性論」と言われている。千葉雅也の半自伝的小説でも、今の社会包摂に偏った〈クィア〉論にバランスを取るように、ゲイのアンチソーシャル的な、未来なし的な様子を描いている。

 〈クィア〉のNo Future性は、タバコにも言えるのではないだろうか。つまり「健康、長生きなんてクソ食らえ!」だ。今更言うことではないだろうが、タバコには肺がんの原因となるタールが含まれている。今ではタバコの箱に「肺がんになる危険性があります。」と白地にゴシック体で書かれているが、これは「健康規範」の内面化と言ってもいいだろう。生政治には、健康状態をコントロールすることで継続的に社会貢献させたり、子孫を育てたり、医療費の削減するという大きな目的があるように思われる。それに対してタバコは「健康なんてクソ食らえ!」と、規律訓練と生政治の秩序から逃走するかのようだ。

 そう、これが私の発想で、異性愛規範や子供産め産め社会に対する逃走線としての〈クィア〉に倣って、タバコを生政治、健康至上主義に対する逃走線として読めないかということである。つまり、あのベランダでの開放性は単に夜空に開けていたということだけでなく、もっと根底的な意味で我々を開放していたのである。これが題名「〈クィア〉なタバコ、生政治に逃走線を引く」である。

 やはり私が一番興奮したのは「肺がんになる危険性があります」という文言が書かれているにもかかわらず吸うという、その開き直った行為による警告の無意味化である。そこで「肺がんになる危険性があります」と印字されたタバコの箱から一本取り出し、煙を十分に楽しむように、「LGBTには生産性がない」をBGMにして、アナルセックスを享楽してみるのはどうだろうか。(画一的な基準において)生産性がないことに開き直ることで、あの発言を無意味化していくのである。「生産性なんてクソ食らえ」である。

 最初に戻ってみよう。私はいわゆる家父長制、男性のホモソーシャルというのをタバコに感じていた。しかしあの日のベランダ喫煙の経験により、タバコに生政治からの逃走を見出した。そしてこれは一般性に欠けると思うが、その時のベランダでの喫煙は、全く「同質性で繋がる場=強要する場」ではなく「異質性を繋ぐ=留保する場」(共感の場ではないことが大事)である感じがしたのだ。温もりを感じた。何がそうさせたかは分からないが、そんな空間にもなり得るのだ。まさに〈クィア〉な、異質なものを留保する、タバコ、〈クィア〉なタバコ体験だったのだ。

 私は思うに生政治の行き過ぎたコントロール社会は、物質レベルの痛みや苦しみからは救われるだろうが、意味のレベルの温もりはないのだろうと思う。タバコは物質機械論的なコントロール社会から脱し、意味や芸術の世界へいざなってくれるようである。まあかなりリスキーな逃走線であるが、このような逃走線の引き方の存在は、今後逃走する時に役に立つだろう。私も私なりに早く逃げたいと思う、タバコじゃない方法で


 補足)今回は〈クィア 〉の「反社会性論」的な部分を扱った。〈クィア〉には社会運動としてLGBTQ+の社会的包摂的な部分も含まれている。今回はそちらは扱っていないが、それに関しては清水晶子の『クィア・ポリティクスとポリテイカル・コレクトネス 「生の保障」と「アンチ・ソーシャル」との間で』 394.pdf (jss-sociology.org)を参照していただけたらと思う。



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