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【読書記録】東浩紀『動物化するポストモダン: オタクから見た日本社会』を読む。

2001年に刊行された『動物化するポストモダン(通称: 動ポモ)』は、批評家である東浩紀のポストモダン論である。また副題の「オタクから見た日本社会」とあるように、同書では20世紀末のオタク系文化に注目し、その特徴を戦後日本の時代精神の変遷に結びつけている。そしてロシア出身の哲学者アレクサンドル・コジェーヴの見立てを横に置くことで、その論考をポストモダン論へと繋げている。

○全体要約

オタク系文化論: 「物語消費」から「データベース消費」へ

同書は大きくいえば「オタク系文化論」であり、80年代、90年代におけるオタクの文化消費の構造を分析している。先行する研究としてオタク論の原点である大塚英志『物語消費論」(1989)があり、同書はその認識をアップデートとする形で論が展開される。大塚の「物語消費」は、80年代の文化消費のことを指し、『ビックリマンシール』(1977)や『機動戦士ガンダム』(1979)に代表される。そこでは個々の作品やシールを通して、その背後にある大きな世界観に酔いしれるような消費が行われていたのだった。東は大塚の見立てを支持するも、90年代のオタクの文化消費のあり方は異なるとする。東は90年代の文化消費を代表するものとして『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)や『デ・ジ・キャラット』(1998)をとりあげ、そこでは作品の世界観ではなく、そこに登場するキャラクターが注目されていると指摘する。特に『デ・ジ・キャラット』のキャラクターは、メイド服、猫耳などの特徴を持っており、オタク系文化の中で有力な要素を組み合わせたキャラクターデザインである。こうした「消費者の萌えを効率よく刺激するために発達した記号」を、東は「萌え要素」と呼ぶ。言うなれば、『エヴァ』や『デ・ジ・キャラット』は「萌え要素」を消費するために、キャラクターや作品が作られていたのである。この文化消費の態度を、東は「データベース消費」と呼ぶ。ここでの「データベース」とは「物語性をもたない断片的な情報の集合体」のことであり、先ほどで言えばメイド服、猫耳などがそれにあたる。このような消費を先ほどの「物語消費」と対比すると、80年代のオタクが作品を通して背後にある大きな世界観を消費していたのに対して、90年代のオタクは、作品を通してその背後にある「萌え要素」=「物語性をもたない断片的な情報の集合体」を消費していたと言える。また90年代の作品は、「萌え要素」を摂取できればいいため、方程式化された物語構成となっている。

ポストモダン論: 「動物化」の全面化

以上の議論に、哲学者のアレクサンドル・コジェーヴ、また社会学者の大澤真幸の見立てを据えることで、90年代のオタクの文化消費態度をポストモダンが全面化した時代の「時代精神」として位置付けられる。まずコジェーヴは「ヘーゲル的な歴史が終わったあとには、アメリカの動物的消費者か、日本的なスノビズムしか残らない」と指摘する。つまり自由と平等に至り終えた社会においては、消費者の「ニーズ」を何の葛藤も持たずとも満たせるような消費社会=アメリカ社会か、日本のように形式的な価値に酔いしれるような社会しかないというのだ。また、この日本の「スノビズム」は、大澤真幸が言うところの「虚構の時代」に対応する。戦後の復興においては近代的なイデオロギーが機能していたものの(「理想の時代」)、そうした大きな物語が凋落し始め(部分的なポストモダン)、その欠如を補うように、他で大きな世界観を求めるような時代、それが「虚構の時代」である。そして、この「スノビズム」=「虚構の時代」が、時代的にも精神としても80年代のオタクが行なっていた「物語消費」と呼応するのである。この地点でポストモダンとオタク系文化が交差するのである。ただ東のオタク系文化論では、「物語消費」はその後「データベース消費」に取って代わられるとのことだった。オタクの「データベース消費」は消費者の萌えを効率よく満たす構造を持っており、形としてアメリカの動物的な消費文化と同等である。つまり、ヘーゲル的な歴史が終わったあとに残るのは最後「動物」なのである。また、ここでの「動物」とは、他者を介さずに欠乏を満足させる存在である。孤独に「萌え」を消費する動物=オタクは、時代の最先端であり、我々が最後に行き着く先なのである。


○各章読書メモ

第一章 オタクたちの擬似日本

→序論 「なぜオタク系文化を語ることが重要なのか」
    「これまでオタク系文化はどのように語られてきたのか」

・「本書での筆者の関心はオタク系文化のまた別の特徴であり、そちらは今度は日本という枠組みを超え、より大きなポストモダンの流れと呼応している。」

→この第一章は「これまでオタク系文化がどのように語られてきたのか」について書かれている。そこでは「オタク系文化に見られる、擬似的な日本的なイメージ」などが語られているが、今回はそれには触れないとする。そうではなく、オタク系文化が持つポストモダン的性質の方に目を向けるのが同論である。


第二章 データベース的動物

→本論 

1. オタクとポストモダン
・「オタク系文化は、このように、シミュラークルの全面化と大きな物語の機能不全という二点において、ポストモダンの社会構造をきれいに反映している。」

→まず「シミュラークル」とは、フランスの社会学者ジャン・ボードリヤールの用語である。これは、もともと「現実との対応関係から解放され、もはや現実を反映する必要のない純粋な記号としての「もの」やイメージ」(日本大百科全書)を意味するものである。この語をボードリヤールは独自に用いて、ポストモダンにおける製品の生産・消費のあり方を捉えたのだった。そこでは、オリジナルとコピーの区別が弱くなり、その中間形態である「シミュラークル」が支配的になるとされている。言うなれば、オリジナルからコピーをつくるという対応関係がなくなり、コピー=シミュラークルだけで増殖するような状態であろう。そして東はオタク系文化の「二次創作」が、この「シミュラークル」に対応すると指摘している。二次創作とは、ある原作のキャラクターや設定を借りて制作された作品である。東が「原作もパロディ〔=二次創作〕もともに等価値で消費するオタクたちの価値判断は、確かに、オリジナルもコピーもない、シミュラークルのレベルで働いている。」というように、オタクたちは原作と二次創作の間に差を感じておらず、キャラクターと設定が同じ等価な作品として消費する。この点でオタクの文化消費はポストモダン的である。

→次の「大きな物語」は、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタール由来の言葉である。リオタールが『ポスト・モダンの条件』で用いた「大きな物語」は、近代社会の構成員の大多数が共有していた物語=「理性に基づいた進歩の物語」のことを指している。ただ同書の注にもあるとおり、同書において「大きな物語」はリオタールの用法に限らずより広義の意味で用いられている。ここでは「社会の構成員の大多数が共有していた物語」の部分のみが使われていると読める。またポストモダンの特徴は、その「大きな物語」が凋落していることであり、「社会的な価値規範〔=大きな物語〕がうまく機能」していないことである。オタクが現実社会ではなく、作品という虚構世界を求めるのは、新たに「別の価値規範を作り上げる必要に迫られている」からと言えるだろう。オタクの虚構重視の態度は、まさにポストモダン的と言える。


2. 物語消費
・「大塚はここで、「小さな物語」という言葉で、特定の作品のなかにある特定の物語を意味するものとして用いている。対して「大きな物語」とは、そのような物語を支えているが、しかし物語の表面には現れない「設定」や「世界観」を意味する。」

→同書で主に参照されるのは大塚英志の『物語消費論』(1989)である。これは、オタク論の原点と呼ばれている。同書は、この『物語消費論』の見立てを借りつつ、アップデートする形で論を展開していく。

→ここで、大塚は「小さい物語」と「大きい物語」という言葉を使ってオタクの文化消費を捉える。ただしここでの「小さい物語」と「大きな物語」は、先ほどのリオタールとは全く異なる用法であることには注意が必要である。リオタールは「社会の構成員の大多数が共有していた物語」を「大きな物語」といい、「小さな物語」は「小規模の集団が暫定的に共有している前提」のことを指す。ただ大塚の場合、別に「ある前提を共有している人数」は問題にならない。問題にしているのは「世界観の規模感」である。これを考える際、シリーズものの作品を思い浮かべてほしい。シリーズものであれば、それらは設定や世界観などは共通しており、その舞台でそれぞれのシーズンで物語が展開していると言えるだろう。この時の前者が「大きな物語」であり、後者が「小さな物語」である。他にも「ビックリマンシール」で言えば、「ビックリマンシール」それぞれは「小さな物語」であり、その背景にある大きな規模の世界観が「大きな物語」である。

→このときオタクは個々の作品の観賞を通して、その背後にある大きな世界観に酔いしれる。そうした文化消費が80年代に見られたのだった。それを大塚は「物語消費」と呼んでいる。ただ設定や世界観自体は正確には物語ではないため「世界観消費」と呼ばれることもある。(例えばビックリマンシールに対する消費は、のちに見る「キャラクター消費」のように見えるが、統一した世界観に酔いしれるためにカードを集めていると言える点で、「物語消費」である。)

ビックリマンシール 「スーパーデビル」


3. 大きな非物語
「失われた大きな物語の補填として虚構を必要とした世代と、そのような必要性を感じずに虚構を消費している世代とのあいだに、同じオタク系文化といっても、表現や消費の形態に大きな変化が現れているに違いない。」

→この指摘が、東のオタク系文化論と大塚のオタク文化論の違いである。といっても大塚の論考は1989年に、東の同書は2001年に刊行されたものである。当然月日は流れているわけで、また東が指摘する世代は、1990年代のオタクであるため当時の大塚が知る由もないのである。つまり東の論は、大塚の論の続きとも言える。

→前述されている「失われた大きな物語の補填として虚構を必要とした世代」とは、近代社会における「大きな物語」=「社会の構成員の大多数が共有していた進歩の物語」が失われたために、その補填として、作品を通じて大きな世界観を求めていた世代である。これは20世紀後半に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教とも通じる世代である。この世代の文化消費の仕方が大塚のいう「物語消費」であり、後続する世代は「大きな物語の補填」を必要とせずに、オタク系作品を消費するような世代である。別の言い方をすれば、全体が失われたため、その補填のために断片から全体を捏造し、それを消費するのが前者世代であり、断片を断片として消費するのが後者世代と言える。この差異に東は目をむけたのだった。

・ガンダム/エヴァンゲリオン論
「『エヴァンゲリオン』の消費者の多くは、完成されたアニメを作品として鑑賞する(従来型の消費)のでも、『ガンダム』のようにその背後に隠された世界観を消費する(物語消費)のでもなく、最初から情報=非物語だけを必要としていたのだ。」

→先ほどの世代による文化消費の態度の違いが明確に現れるのが「機動戦士ガンダム」と「新世紀エヴァンゲリオン」である。この違いは「物語消費」から「キャラ萌え」という転換として捉えることができる。機動戦士ガンダムシリーズは、1979年からテレビシリーズが始まり80年代大きな人気を得た。このガンダムシリーズに対して、オタクたちは背後にある設定、全てのシリーズが共通しているひとつの歴史に注目し、酔いしれたわけである。これが「物語消費」、「失われた大きな物語の補填」である。しかし1995年にテレビシリーズが放映された「新世紀エヴァンゲリオン」は、そのような消費のされ方はしなかった。その当時、オタクたちはエヴァに出てくるキャラクターそれ自体に目が向けたのだった。これが「キャラ萌え」である。「エヴァ」の物語、その背景にある設定(エヴァにもかなり複雑で壮大な設定があるのだが)ではなく、キャラクター単体の可愛さに焦点が当てられ、そのキャラクターをもとに別の設定でつくられたゲームなどが発売されていた。このように、物語性をもたない断片的な情報(=キャラクター)の集合体のことを東は大塚の「大きな物語」に対比して、「大きな非物語」と呼んでいる。

「機動戦士ガンダム」
「新世紀エヴァンゲリオン」

4. 萌え要素
・『デ・ジ・キャラット』(1998-)論
「猫耳や「にょ」そのものが直接に魅力的だからなのではなく、猫耳が萌え要素で、特徴ある語尾もまた萌え要素だからであり、さらに正確に言えば、90年代のオタクたちがそれを要素だと認定し、そしていまやその構造全体が自覚されてしまっているからなのである。」

→作品やその世界観に力点が置かれるのではなく、キャラクターに力点が置かれる傾向がもろに現れているものとして、東は1998年誕生した「デ・ジ・キャラット」を取り上げる。これは「エヴァンゲリオン」とは異なり、何か作品の中のキャラクターではなく、アニメ・ゲーム系会社のイメージ・キャラクターとして制作された。メイド服、猫耳、アホ毛?、語尾「にょ」などの特徴を持っており、オタク系文化の中で有力な要素を組み合わせたキャラクターデザインになっている。このように「消費者の萌えを効率よく刺激するために発達したこれらの記号」を、東は「萌え要素」と呼んでいる。また、それらは「市場原理のなかで浮上してきた記号」であり、文化消費を促すための空虚な要素と言えるだろう。
→このとき、要素の最小単位が「キャラクター」ではなく「萌え要素」にあることが重要である。つまりキャラクターは「萌え要素」に還元することができるということである。「エヴァンゲリオン」の綾波レイであれば、無口、青い髪、白い肌、神秘的能力などの萌え要素に還元され、それら萌え要素は他の作品のキャラクターにも使われていく。つまり「キャラクター」が「萌え要素」の二次創作になっているのである。この構図は、先ほどで言えばキャラクターが「物語性をもたない断片的な情報(=萌え要素)の集合体」によって規定されていると表現できるだろう。ただ作品も「物語性をもたない断片的な情報(=キャラクター、設定)の集合体」に規定されている。これがのちに見る「シミュラークルとデータベースの二層構造」の二重化である。

「デ・ジ・キャラット」
出典: https://www.broccoli.co.jp/dejiko/chara.php


5. データベース消費
・「『デ・ジ・キャラット』を消費するとは、単純に作品(小さな物語)を消費することでも、その背後にある世界観(大きな物語)を消費することでも、さらには設定やキャラクター(大きな非物語)を消費することでもなく、そのさらに奥にある、より広大なオタク系文化全体のデータベースを消費することへと繋がっている。筆者は以下、このような消費行動を、大塚の「物語消費」と対比する意味で、「データベース消費」と呼びたいと思う。」(p. 78)

・「オタクたちの萌えの感覚は、つねにキャラクターの水準と萌え要素の水準のあいだで二重化されており、だからこそ、彼らは萌えの対象をつぎつぎと変えることができる。もし萌え要素の水準がなく、彼らが単にそれぞれの趣味でキャラクターを選んでいるだけならば、特定のキャラクターに特定のファンがつくだけで終わっていただろう。」

・「個々の企画〔=作品〕はシミュラークルであり、その背後に、キャラクターや設定からなるデータベースがある。ところが、さらに別のレベルで見ると、そのキャラクターもまた、萌え要素のデータベースから引き出されたシミュラークルにすぎない。」

→これまで、オタクの文化消費のあり方が「作品の背後にある世界観」から「キャラクター単体」、そして「萌え要素」へと移行したことを見てきた。この変遷を東は「「物語消費」から「データベース消費」へ」と造語を用いて捉える。引用した内容に沿って理解すると、「物語性をもたない断片的な情報(=キャラクター)の集合体」が「大きな非物語」に対応し、「物語性をもたない断片的な情報(=萌え要素)の集合体」が、「データベース」に対応するだろう。両者とも「データベース」と言ってもいいようだが、後者の方が「より広大な」オタク系文化全体のデータベースであり、「キャラクター」というよりも「萌え要素」のデータベースの方が優位であり、それを消費するために「キャラクター」を用いていると言っても過言ではない。そしてもう一階層、そのキャラクターを消費するために「作品」を用いているという構造である。つまり、萌え要素を消費するために、キャラクターがつくられ、それを登場させる作品がつくられるのである。ここに「シミュラークルとデータベースの二層構造」の二重化が見られる。つまり「シミュラークル/データベース」の関係が「作品/キャラクター」と「キャラクター/萌え要素」の両方に見られるということである。これが話を複雑にしているように思える。


6. シミュラークルとデータベース
・「ポストモダン論においては、シミュラークルの増加は、オリジナルとコピーの区別が失われたところで生じる無秩序な現象だと捉えられることが多かった。」

・「いままでのポストモダン論の多くは、そのツリー・モデルが単に崩壊したのではなく、データベース・モデルに取って替られたことにあまり自覚的でなかったように思われる。」

・「この社会を満たしているシミュラークルとは決して無秩序に増殖したものではなく、データベースの水準の裏打ちがあって初めて有効に機能しているのだ、という別の考え方である。」

・「実際にそれらシミュラークルの下に、良いシミュラークルと悪いシミュラークルを選別する装置=データベースがあり、つねに二次創作の流れを統御しているのだ。」

→これまで多くのポストモダン論は、ポストモダンを「無秩序」として表現してきた。その代表例が、注にも書かれていたが浅田彰の「リゾーム・モデル」である。それは一つの方向性を持たずに、四方八方に展開してくようなモデルである。これは、ボードリヤールのシミュラークル論、つまり、オリジナルが失墜し、オリジナルとコピーの区別がなくなり、シミュラークルの無秩序な増殖が生まれたというのと考えたは同じである。

→ただ東は、こうした既存のポストモダン論に疑義を呈する。ポストモダンにおける文化消費は無秩序なのではなく、データベースによって規定されていると東は指摘する。つまり理性による秩序がなくなって無秩序になったのではなく、新しくデータ・ベース(=トレンド=流行)が秩序に取って代わられたということだ。この「データ・ベース」というのを導入したのが東浩紀のポストモダン論の「可能性の中心」であると言えるだろう。

→私はこの点が東浩紀のポストモダン論の画期的なところであると考える。つまり、ポストモダンは全体を統べるような大きな物語が崩壊し、無秩序になったと考えられていたが、今やそういった一つの方向性を持たないのではなく、トレンド=データベース一強の時代と言っていいだろう。流行り廃りが早く、そのトレンドによって文化消費が大きく左右されている。東は、この状況を言い当てたように思える。文化消費だけでなく、政治的な文脈にも広ければ、ポストモダンとは「ポピュリズムの時代」と言ってもいいのかもしれない。

→私の見立ててでは、ポストモダンの時代では、各々が自らの道を生成変化的に生きているのではなく、大きな渦に飲み込まれ、その流れに沿っているように思える。

「リゾーム・モデル」

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7. スノビズムと虚構の時代
・コジェーヴ「歴史の終わり以降」
「そこでコジェーヴは、ヘーゲル的な歴史が終わったあと、人々には二つの生存様式しか残されていないと主張している。ひとつはアメリカ的な生活様式の追求、彼の言う「動物への回帰」であり、もうひとつは日本的なスノビズムだ。」

→東はこれまでの議論を単なる日本のある時期(90年代)のオタク文化の分析に終わらせず、ロシア出身の哲学者アレクサンドル・コジェーヴの見立てを使うことで、日本のオタク系文化をポストモダンの時代的精神として位置付ける。つまり、コジェーヴがあることによって、同論考がオタク文化論から、ポストモダン論になるのである。

→コジェーヴの見立てによると、ヘーゲル的な歴史が終わったあと、つまり全ての人が自由と平等を得た近代社会が完成したあとには、ある2つの生存様式しか残らない。ひとつがアメリカ的なあり方として、もう一方が日本のスノビズム的なあり方である。アメリカ的なあり方とは、市場原理に任せた消費者のあり方であり、「消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく消費社会」である。そこでの消費者はすでに満たされているため、人間が自然を加工し(否定し)、格闘していたあり方ではなく、自然(消費社会)と調和しているような動物と同じであるため、「動物的」と形容されているのである。一方の日本のスノビズムは、「形式化された価値に基づいて」自分に与えられた環境・身体を否定し、それに酔いしれるあり方である。(→「物語消費」と同じ形)例として与えられているのは「切腹」であり、名誉や規律といった形式的な価値に基づいて自殺が行われる。ただそうしたことは「形式的」であり、実質的にヘーゲル的な歴史を動かすことはない。(ヘーゲルは何でもかんでも歴史の駆動に寄与させる)この2つが歴史の終わり以降に残された生存様式だと、コジェーヴは指摘する。

・「大澤によれば、戦後日本のイデオロギー状況は、45年から70年までの「理想の時代」と、70年から95年までの「虚構の時代」の2つに分かれる。本書での表現で言えば、「理想の時代」とは、大きな物語がそのまま機能していた時代、「虚構の時代」とは、大きな物語がフェイクとしてしか機能していない時代のことである。この枠組みのなかではオタク的な物語消費=虚構重視は、「消費社会的シニシズムの徹底した形態」として、終戦から80年代まで一貫する流れのうえで捉えられる。」

→これまでのオタク系文化の分析を世代論として位置付けるために、もうひとつ補助線として大澤真幸の見立てを用いる。ただこれはヘーゲルのような世界史ではなく、戦後日本史に対する見立てである。大澤は戦後から高度経済成長までは、大きな物語=近代イデオロギーが機能しており、それが復興を支えていたとする。これが「理想の時代」である。だが70年代によってその近代イデオロギーが実質的に機能することがなく、フェイクとしていか機能していたなった。また、それを埋めれるかのように「オタク的な物語消費」があると位置付けられる。これは1995年のオウム真理教事件に象徴されると言えるだろう。

→世界で見ると第一次世界大戦の14年からモダンの解体は始まり、冷戦終結までの89年で完全にポストモダンに突入したと言える。その間の部分的ポストモダンは、世界の転換期、過渡期なため、大きな物語を維持したり、それを埋め合わせようとする動きが見える。それがジジェクのいう「シニシズム」であり、左翼運動の熱狂だったり、オウム真理教だったり、オタクの物語消費だったというわけだ。


8. 解離的な人間
・ノベルゲーム(1980s後半-)論 

・「オタクたちに人気のある萌え要素を徹底的に組み合わせ、彼らが効率的によく泣き、萌えるための一種の模範解答を提供するために作られている。(中略)そこで求められているのは、旧来の物語的な迫力ではなく、世界観もメッセージもない、ただ効率よく感情が動かされるための方程式である。」

→コジェーヴの見立てを元に、本章では最後「ノベルゲーム」について分析される。ノベルゲームとは「マルチストーリー・マルチエンディングの小説を、コンピュータ・スクリーン上で画像や音楽とともに「読む」ゲームのことを意味する。」東は90年代に消費されたノベルゲームにおいて、ウェルメイドな、よく作られている物語が求められていることに注目する。ただそれは旧来の物語的な迫力ではなく、世界観もメッセージもない、ただ効率よく感情が動かされるための」物語である。まさに萌え要素を消費するために、キャラクターがつくられ、それを登場させる作品がつくられているのである。

・「ノベルゲームの表層的な消費〔シミュラークルの消費〕は萌え要素の組み合わせで満たされ、オタクたちはそこで泣きと萌えの戯れを存分に享受している。これは確かにそうなのだが、しかし、より詳細に観察すると、また別種の欲望の存在が見えてくる。それは、ノベルゲームのシステムそのものに侵入し、プレイ画面に構成される前の情報をナマのままで取り出し、その材料を使って別の作品を再構成しようとする欲望である。」

→ただオタクたちは、単に作品を消費するだけでなく、作品を構成しているデータを取り出し、それを元に新たな作品(二次創作)を作り出そうとする。これは、もともとのノベルゲームのシステムがそうであり、断片的なキャラクターデータ、背景データなどを使い回すことでストーリーの各場面を構成しているため、データさえ手に入れられれば、同等の作品が制作可能なのである。

・「近代の人々〔理想の時代〕は、小さな物語から大きな物語に遡行していた。近代からポストモダンへの移行期の人々〔虚構の時代〕は、その両者を繋げるためスノビズムを必要とした。しかしポストモダンの人々は、小さな物語と大きな非物語という二つの水準を、特に繋げることなく、ただバラバラに共存させていた。(中略)〔これを、〕精神医学の言葉を借りて「解離的」と呼びたいと思う。(中略) 実際には、より広く、シミュラークルの水準で生じる小さな物語への欲求とデータベースの水準で生じる大きな非物語への欲望のあいだのこの解離的な共存こそ、ポストモダンを生きる主体を一般的に特徴づけいている構造だと筆者は考える。」

→東は、ノベルゲームに対する、こうしたオタクらの2つの傾向を「小さな物語への欲求」と「大きな非物語への欲望」として区別する。そしてそれらはつながることなくバラバラであるとする。近代では、個々の作品は社会が共有していた大きな物語に支えられていた。しかし移行期では、大きな物語は凋落し、それを自ら補填するために個々の作品を通して共通している世界観に酔いしれていた。このように以前は表層と深層のあいだを行き来していたわけだが、ポストモダンが全面化すると、そうした行き来は行われずに、表層と深層は別々に扱われるようになった。これを東は「解離的」と呼んでいる。


9. 動物の時代
・「コジェーヴによれば、大きな物語が失われたあと、人々にはもはや「動物」と「スノビズム」の二つの選択肢しか残されていなかった。そして本書ではここまで、そのスノビズムのほうは、世界では1989年〔冷戦終結〕、日本では95年〔オウム真理教、阪神淡路〕に時代精神としての役割を終え、今は別種の時代精神=データベース消費に取って替わられつつあると論じてきた。この変化を、コジェーヴの言葉を踏まえて「動物化」と名づけるのもよいかもしれない。」

→先ほどの「7.スノビズムと虚構の時代」では、コジェーヴのいう「スノビズム」が、オタクの「物語消費」の態度、また大澤真幸のいう「虚構の時代」における人々の態度と呼応することが指摘された。ただ東の見立てでは、現在オタク系文化は「物語消費」ではなく「データベース消費」に取って替わりつつある。つまり、歴史の終わり以降の二つの生存様式のうちの一つ「スノビズム」的なあり方はすでに廃れていると言えるだろう。つまり世界に残されたのは、もうアメリカ的な「動物」しかないのである。

・「動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。(中略)したがってここで「動物になる」とは、そのような間主体的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏-満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する。

→ここでの「動物になる」とは、人間の本能的な部分に従順になることを単純に指しているわけではない。これは先ほど同様にヘーゲル独特の「人間/動物」の定義であり、特に東は「他者を介するか、否か」と点を「人間/動物」の差異として際立たせる。このとき人間と動物の行動原理は、欲望と欲求に分けることができ、人間は、他者を介して自己実現をするような欲望を持ち、動物は、他者を介さずに、即席的に自己実現を果たす欲求を持つ。性愛関係で言えば、パートナーと密なコミュニケーションを取ってセックスするのと、性風俗でお金を払って即席的に快楽を得ることの違いだと言えるであろう。

→先ほどのノベルゲームの「ただ効率よく感情が動かされるための方程式」にのっとった物語を個人のレベルで消費する行為は、他者を介さないため「動物的な欲求」に基づいていると言える(→「小さな物語への欲求」)。

→ただ「ノベルゲームのシステムそのものに侵入し、プレイ画面に構成される前の情報をナマのままで取り出し、その材料を使って別の作品を再構成しよう」とする行為は、オタクのコミュニティを必要とする。活発にチャットを交わし、オフ会を開いて、情報を交換し、二次創作を売買し、新作の評価について議論し合っているのがそれである。そのため他者を介した行為であるため「人間的な欲望」となる。ただそれは「大きな非物語」=「物語性をもたない断片的な情報(=キャラクター)の集合体」を得るためであり、「小さな物語」とは結びつかない。また物語性がないため、人生の意味などにも結びつかない。これが先ほどの「解離」現象である。

・「データベース型世界の二層構造に対応して、ポストモダンの主体もまた二層化されている。それは、シミュラークルの水準における「小さな物語への欲求」とデータベースの水準における「大きな非物語への欲望」に駆動され、前者では動物化するが、後者では擬似的で形骸化した人間性を維持している。この新たな人間を「
データベース的動物」と名付けておきたい。」

→オタク系文化における文化消費のあり方から、その主体のあり方まで拡張したのが第二章の後半である。東はそれをノベルゲームに対する消費の構造から明らかにしたのであった。「小さな物語への欲求」と「大きな非物語への欲望」、この解離した二つの水準が同居している、共存しているそれがポストモダンの主体であり、それを東は「データベース的動物」と名付けている。


第三章 超平面性と多重人格

→補論

1. 超平面性と過視性
・ウェブ論

2. 多重人格
・『YU-NO』論


○他に気になるところ

・「現在のオタク系作品の多くは、明らかに、その動物的処理の道具として消費されている。このかぎりで、オタク系文化における萌え要素の働きは、じつはプロザックや向精神薬とあまり変わらない。そして同じことは、また、ハリウッド映画やテクノ・ミュージックなど、さまざまな娯楽産業の働きにも言えるのではないか。」(p. 140)
→これは、今のNetflix、Youtube、Instagramのリールなどにも言えることだろう。

・「オタク的社交性」


○コメント

・論の展開がアクロバットといえば、アクロバットであろう。

・大塚英志『物語消費論』を用いて、物語消費をしていた時代の次の時代の文化消費の特徴を捉えたのが東浩紀である。

・これは現代のソシャゲの流行にも通じると思われる。

・これは文化批評である。つまり、よく分からない文化的状況に、さまざまな補助線を引いて、特徴を浮き上がらせるような営みである。そのとき一種の誇張、デフォルメ化を行うこともあるが、それが「概念化」であり、今回で言えば「データベース的動物」概念がそれにあたるだろう。

・世代論

・私自身は中高生時代、つまり2010年代にアニメやライトノベル、フィギュアなどにハマっていた時期があった。『化物語』『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』『ソード・アート・オンライン』『進撃の巨人』などがタイムリーだった世代である。だからなんとなく書かれている内容や精神性みたいのが分かる。

・今、世界はどんどん虚しく、浅くなっていっている。その虚しさに格闘する人の体力は目減りする一方である。

・軽くて、浅い、ポストモダン。こうしたポストモダンの時代において、いかに人々が自分たちの中にとどまらずに、他者と出会えるのか。それが東浩紀の試みであり、「ゲンロン・カフェ」であり、「観光客」論なのかしれない。


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