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【読書記録】 ジョアン・コプチェク『わたしの欲望を読みなさい: ラカン理論によるフーコー批判』 、第7章「密室/わびしい部屋」を読む①

本noteは、ラカン派精神分析理論を用いる批評家ジョアン・コプチェクの著作『あなたの欲望を読みなさい: ラカン理論によるフーコー批判』(1994)の第7章「密室/わびしい部屋 フィルム・ノワールにおける私的空間」に関する読書記録である。

同書は文芸・映画批評に関する著作であり、章の前半では古典的な探偵小説における「探偵の機能」を、ラカンの理論を用いて論じている。また後半では、第二次世界大戦後、アメリカで流行った犯罪映画「フィルム・ノワール」と古典的探偵小説の違いを述べている。

今回は、章前半の探偵小説論に絞り、要約・読書メモを行う。またこの部分に対する注釈論文として、 村山敏勝『(見えない)欲望へ向けて: クィア批評との対話』も紹介する。

章前半の要約

本章の前半では、古典的な探偵小説における探偵の営みを、ラカンの精神分析理論の言葉で説明している。

探偵の営みとは、凡人たちが「密室」として閉じさせている事件現場に対して、そこにある無数の物証を独創的に「解釈」し、「事件の不可能性」として立ち現れていた密室に、新しく「事件を可能にする」説明を与えることである。

ここで鍵になるのが「密室のパラドクス」である。つまり探偵小説における密室とは「常識的には閉じているが、実際は閉じてはいない」という矛盾した空間なのである。このパラドクスは、精神分析理論における「集合のパラドクス」と構造が同じである。我々が「ある性質αを持っている対象物」それ一般を語りたい際に、ある性質αを持った経験的対象物は論理的には無限に存在するため、無限列挙の罠に陥る。そうした我々の列挙不可能性という内的な限界でもって、集合は暫定的に閉じられる。こうして、本来は集合が閉じていないにもかかわらず、あたかも閉じたかのように集合を扱える、というパラドクスが起こるのだ。

常識の範疇を超えない凡人らは、集合や密室を閉じているものとして扱ってしまうが、探偵は密室の持つ「閉じえなさ」に向かい、そこにある無数の対象物1つ1つを検討し、常識から逸脱した犯人の思考を読み解くのである。

各節に対する読書メモ

○探偵小説の起源としての保険統計(→議論の導入)

・「探偵は、感覚の世界にはどこまでも懐疑的で、ア・プリオリな観念をきっちりと明確に規定するほうにこだわって、感覚の世界からは引きこもるのである。(中略)探偵は、合理主義者である限り、保険会社の清算係とあまり違わないのである。」
→探偵は物事に対して「感覚的な説明」ではなく「理性的な説明」を与える。つまり、自分の感覚に懐疑の念をかけ続けて、純粋に「理性による理解可能な説明」を与えようとする。(その点でデカルト的思考、合理主義者なのである。)

・「『犯罪が犯罪を再生産する際のおそるべき正確さ』は、犯罪の統計的な規則性に初めて気づかされた人々にとって、大きな魅力だった。(中略)こうした統計は数学的な機体の地平を作り出し、リスクは計算可能であると信じ込めるようにまでなった。(中略)古典的探偵小説の語りが読者と結ぶ契約の基盤にあるのは、統計だからである。犯罪が解決可能であるという一九世紀の虚構の信念は、厳密に意味で数学的な期待なのだ。」
→このようにコプチェクは最初、探偵小説と統計との関連には歴史的な必然性(「犯罪の解決可能」の流通)があるという説明をハッキングにならって言うが、その後「探偵小説と統計とを連結させるのは、この原理[ ラカンの欠如の原理 ] に他ならない」とラカン理論を用いて非歴史的に関係づける。

○密室パラドクスと集合(→探偵とラカン理論)

-密室のパラドクス
・「古典探偵小説を定義づける要素の一つに「密室のパラドクス」がある。」
→密室とは「締めきって外から人が入れない部屋」のことを指すが、探偵小説では、たびたびそうした密室で人が殺される。そのとき「一体誰がどうやって殺したんだ?」という謎が残るわけだ。こうして探偵小説における密室は、最初に「殺人の不可能性」として立ち現れるわけだが、それに対して探偵は、その密室に「殺人を可能にする」読みを行い、謎を解いていく。ここまでが探偵小説に含まれるシナリオである。言うなれば、探偵小説における密室とは「常識的には閉じているが、実際は閉じてはいない」というパラドクシカルな空間なのである。
→この探偵小説における密室のパラドクスが、ラカン理論における「集合」のパラドクスと通じるというのが、コプチェクの主張である。

-「集合(カテゴリー)に属する」、または「数え入れ終える」とは。
・「近代国家の成員は、「X国市民」という概念ではなく、「『X国市民』という概念に同一的な」概念に属する。」
・「「X国市民」という単純な概念が、それが包み込む個々人たちをまとめるために、彼らを集合に組み入れる何らかの共通の属性を「拾い上げる」のに対して、折り重ねられた概念 [ 「『X国市民』という概念に同一的な」概念(the concept "identical to the concept"" the citizen X") ]は、個々人を彼ら自身への同一性へと還元することで彼らをまとめあげる。」
→これまでの文脈から「X国市民」という例が来ているのだが、簡単のために「りんご」にしよう。ある共通の性質を持つもの(赤くて、丸くて、甘みがある…)の集合一般について考えたい時、その性質を持つ経験的対象物である「A」「B」「C」…をいちいち列挙するのではキリがないので、非経験的対象物である「りんご」を用いることで、「ある性質を持つもの(赤くて、丸くて、甘みがある…)」=「りんご」一般を扱かえるようになる。このとき「りんご」らしき、それぞれの経験的対象物A, B, C… が、「りんご」=「ある共通の性質をもつもの(赤くて、丸くて、甘みがある…)」という属性の「束(赤くて、丸くて、甘みがある…)」によって集められるのでは、無限列挙に苛まれてしまう。そうではなく「『りんご』という概念と同一なもの」という集合でまとめることができれば、同語反復ではあるが、無限列挙に苛まれることはない。(※我々が日頃会話をするときも、いちいち無限列挙しているわけではなく、こうした同語反復にも似た感覚で「りんご」一般を語っているのだろう。)

この議論に対して、野矢茂樹『言語哲学がはじまる』の第一章「一般観念説という袋小路」での以下の指摘が参考になる。

「三角形の一般観念は斜角三角形でも直角三角形でもなく、正三角形でも二等辺三角形でも不等辺三角形でもなく、それらの全てであると同時にそれらのどれでもないのでなければならない。」(野矢, 2023, p. 23)

ここでの「一般観念」とは、個別の対象物を抽象化したものであり、「猫」や「三角形」という一般名詞が指し示す対象は、個別具体的の猫や三角形ではなく、我々の頭の中で抽象化されている「一般観念」になる。また上記の一文が意味しているのは、「一般観念」は個別の対象物それぞれでもないのだが、それら全てでもあることだ。そして重要なのが「それらのどれでもないこと」だ。これは具体的にどれかであっては、それら全てである可能性を否定してしまうからである。このように「一般観念」を想定する場合、それは大変奇妙なものとして考えることが必要になる。

以上の「一般観念」を補助線に用いれば、近代国家の成員は、いくつかの条件の束を満たすものとして「X国市民」となるのではなく、「一般観念」としての「X国市民」と同等な概念の集合に入るのである。つまり、条件を満たす具体的な対象物の列挙によって「X国市民」が成り立っているのではなく、「X国市民」という、個別の対象物を抽象化した「一般観念」を噛ませることで、X国市民を「X国市民」として考えられるのである。

-ハッキングのフレーゲ読解と、ラカン理論の違い
・「両者[ ハッキング(フレーゲ)とラカン(ミレール) ]の違いはすでに言っていた「その概念に同一でない」概念( the concept "not identical to the concept")の導入からくる。」
・「数えることは、パフォーマティヴな次元を持つとわれわれは指摘したが、ということは数列には何らかの限界が前もって与えられていなければならないことになる。外的な限界は考えられないのだから、残る可能性は一つしかない。限界は数列に内的なものと考えなければならないのだ。これこそ「それ自身に同一でない」概念、数列の内的な限界である。(中略)この概念は数列の限界を刻み、それと同時に数[ = 分類] を経験的現実から切り離して、数[ = 分類] 同士を接合させる。」
→まず私は「その概念に同一でない」概念が理解できていないので、(理解するには、ミレールがフレーゲに対してラカン的読解をした「縫合」論文を読む必要があるだろう。)ここではほぼ同義として用いられている「数列の内的な限界」を中心に読解する。
→この「数列の内的な限界」とは「言語の内的な限界」といえ、それはラカンのいうところの「現実界」である。この「現実界」は「物質世界」を指すのではなく「言語で思考できない領域」という否定神学的な記述の仕方で指し示される。
→「数える(ある集合=カテゴリーに数え入れる)という行為が可能になるには、そうした集合に何かしらの限界が必要である」という指摘は、先ほどの話でも出ていた「無限列挙」の問題と通じる。つまり、我々は「ある性質αをもつ集合の要素はこれで十分である」と閉じさせたいわけだが、ある性質αを持つ経験的対象物は論理的には無限に想定することができるため、外的な限界(経験世界の側の有限性)で閉じさせるのではなく、我々の側の内的な限界を介して閉じさせる必要がある。
→そうした限界によって、本来は集合が閉じていないにもかかわらず、あたかも閉じたかのように集合一般について語れるのである。我々は先ほどの例で言えば、あらゆるりんごらしきものを念頭に入れなくても、「りんご」一般を扱えるのである。

補助線として、ラカンに関する著作、松本卓也『人はみな妄想する』(pp. 59-60)の「疎外」と「分離」の説明を置いておく。

「疎外において導入された大他者は、一貫した大他者(A)ではなく、それ自身のうちにひとつの欠如[ 言語の内的な限界 ]を抱え込んだ非一貫的な大他者(A/)である。その大他者の欠如を埋めるために、ひとはかつて失った原初的な享楽を部分的に代理する対象aを抽出し、それを大他者に差し出す。この過程を分離と呼ぶが、この分離によって、人は大他者に内在する欠陥(A/)を対象aで覆い隠して見えないようにする(A/ + a = A)二重の態度を両立させた凡フェティシズム的態度に到達する。こうして、対象aを媒介とすることによって、享楽から適切な距離を保つことを可能にするファンタスム[ ラカン用語 ]が形成されるのである。」(松本, 2015, pp. 59-60)

-密室のパラドクスとラカンの集合論
「[ 探偵小説における ] 密室は過剰な要素、それ自身の限界を含む空間であり、この限界だけがその中の中身の無限性を保証し、無限の数の対象物がそこから引き出されると保証する。別の言い方をしよう。探偵小説の空間は深い空間である。(中略)このため密室は数列と似たものになり、その限界は数えることそのものの条件、つまり数列に含まれる要素の数の無限性である。」
→探偵小説における密室は、固有のパラドクスを持っている。それは先述した通り、小説序盤で、密室は「常識的には閉じているもの」として登場するが、それは解決される運命にあるため「実際は閉じていない」のである。このパラドクスが、先ほど見た「集合のパラドクス」と同じ構造をもっているのである。ここから、探偵小説における密室は、暫定的に閉じられており、またその暫定性がその密室に無限性を与えているのである。言い換えるならば、密室には、凡人たちは目を瞑ってしまう「無限の数の対象物」に溢れているのである。

→あとで紹介するが、村山敏勝『(見えない)欲望へ向けて』では、探偵小説における密室が以下のように表現されている。

「こうした[ 暫定的に ]閉じられた集合には、常に新たな要素を付け加えることができるのだから、こうした完全に閉じているわけでもなく、探偵小説における密室は、この空虚さをこそ暴き立てている。常識的な理性に従えばあり得ない事態が生じている以上、この部屋にはなにか我々の知らない要素があるーー秘密の抜け穴や隠し扉といった、すでに常識に含まれているがたまたま今まで気づかれなかった要素ではなく、我々の認知の枠内では気づかれえない何らかの要素が存在する。」(村山, 2022, pp. 194-195)

-探偵による「欲望である解釈」
・「ここで解釈が介入してくるーーラカン言うところの、欲望である解釈である。(中略)欲望は、探偵の客観性を脅かす不純ではなく、むしろそれを保証する擬似的超越的な原理なのだ。言い換えると、欲望は偏見を押しつけるものではなく、亀裂[ 証拠と証拠が証明するものの距離 ]を想定する。探偵は、証拠を超えた空白、証拠そのものには還元不可能でありながらそこに完全に表明されている残余を仮定することによって、証拠を読み解く。解釈という言葉の意味は、証拠は全てを教えてくれるが、その読みかたは教えてくれないということだ。」
→探偵は、凡人たちが目を瞑ってしまう「無限の数の対象物」に目を向け、それを1つ1つ検討する。ただ警察のように密室の中に決定的な証拠が存在すると考え、その証拠から犯人を演繹するような態度は取らない。(ここでの警察の振る舞いは、常識的なカテゴリーや方程式のようなもので証拠を見るとしていいだろう。今ではDNA鑑定とか)そうではなく、探偵は証拠を独創的に「解釈する」のである。「証拠」と犯人が結びついているのではなく、「証拠が証明するもの」と犯人が結びついているのである。そうした「証拠」と「証拠が証明するもの」との距離を探偵は解釈によって超えるのだ。探偵は、常識から逸脱した犯人の思考を、証拠から解釈し、凡人には閉じているように見えていた「密室」に対して、新たに「理性的な説明」を与えるのである。
→ここで用いられている「欲望」は、いわゆる「〈他者〉の欲望」、つまり他者と共有している言語の法に制限されている欲望ではなく、現実界に向かうような欲望のことを指す。ただこれは「欲動」ともまた異なる。これについては、ラカンの入門書である、片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門』のpp. 168-169を参照したい。

→先ほどの村山本では、以下のように探偵の行為が表現されている。

「探偵の仕事は、ある集合ーーここでは「理性的な説明」なるものの集合ということになるだろうかーーがいったん閉じた世界に現れて、そこに新たな「一つ」を付け加えることである。不可能を可能にすることによって、世界を構成するものの無限の列挙にまた一つの暫定的な閉じかたを与えること。」(村山, 2022, p. 195)


注釈論文: 村山敏勝『(見えない)欲望へ向けて』 第6章「欲望はそこにある」

村山敏勝の『(見えない)欲望へ向けて: クィア批評との対話』の第6章「欲望はそこにある: ジジェク、コプチェク、固い現実界」は、今回扱うコプチェクの探偵小説論の注釈論文として読める(特にpp. 192-198)。

そもそもこの村山本は、ジェンダー・セクシュアリティ分野の「クィア批評」に関する著作である。この「クィア批評」は、コプチェクも用いているジャック・ラカンの精神分析理論を元にしているのだが、ラカンの理論を応用する仕方は、用いる論者によって異なる。この第6章では、さまざまな精神分析論者を紹介し、その中でも特に「コプチェクの探偵論」を中心にして、コプチェクと他の論者(ジジェク、ミチャシュウ、シルヴァマンなど)との違いを明瞭にしている。村山は、単に「規範的な欲望」と「非規範的な欲望(クィアな欲望)」を切り分け、それを「異性愛/非異性愛」の構図として固定化し、後者を読み拾うのではなく、「規範的/非規範的」の間を移動するような読解の可能性をコプチェクから引き出し、それを「クィア批評」の態度と対応させる。以下、その意図に該当する文章を列挙する。

「コプチェクの探偵があらためて我々に教えてくれるのは、容易に読みうる欲望とそうではない欲望との差異は固定化してはおらず、かつ前者から後者へのジャンプはどこかで可能であることだった。(中略)きわめて近い立場にいながら、コプチェクにあってジジェクにないのは、この一時的な移動の契機である。」(p. 212)

「こうしたきっぱりとした分類で抜け落ちてしまのは、欲望ということばがどうしても二つの次元、〈他者〉の象徴界と現実界の、両方にまたがってしまうこと、そしてわれわれがみてきた探偵の機能は、この二つのあいだの一時的な移行にあることではないだろうか。」(p. 209)

「コミュニティに認定された〈他者〉の欲望と、そうでない欲望を、探偵は仲介しようとする。」(p. 198)

全体コメント

・まずラカンの精神分析に対して理解が甘いため、多々不備のある読解になっているのは確かである。特にラカンの集合論(ミレールによるフレーゲ読解)に関しては、より厳密な検討が必要だろう。また探偵論の要である「欲望である解釈」の「欲望」に対しても悔いが残る。これこそが村山が指摘している通り「常識から逸脱する欲動」と「〈他者〉に承認されている欲望」の間を行き来する可能性であるため、ラカンにおける「欲望」が何なのかを改めて調べる必要があると感じた。

・特に興味を持った記述は「探偵小説の空間は深い空間である」だ。これは「密室のパラドクス」の話をしているわけだが、探偵小説における密室は、暫定的に閉じられており、またその暫定性がその密室に無限性を与えているのであった。つまり密室には、凡人たちは目を瞑ってしまうが、そこには「無限の数の対象物」に溢れているのである。これはただ単に無限の数の対象物が暴露されているのではなく、暫定的に閉じられているなかに、無限の数の対象物が含まれているということである。ここに一筋縄にはいかない”深み”があるように思える。そうした”深み”があるからこそ、探偵の独創的な読解が映えてくるようにように思える。

・コプチェクが定式化した探偵の営みは、哲学研究における「古典への注釈」と似ているように思える。つまり古典に対して一つまとまった権威的な見解がある中で、古典のテクストに向き合い、独創的な補助線を引きながら、それとは別の仕方で整理し直すことである。これは村山が整理したコプチェクの探偵論とほぼ同じ営みのように見える。

「探偵の仕事は、ある集合ーーここでは「理性的な説明」なるものの集合ということになるだろうかーーがいったん閉じた世界に現れて、そこに新たな「一つ」を付け加えることである。不可能を可能にすることによって、世界を構成するものの無限の列挙にまた一つの暫定的な閉じかたを与えること。」(村山, 2022, p. 195)


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