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【書評】 伊藤亜紗 『手の倫理』

手を介した二者関係

普段、人の体に触れることはありますか。例えば握手だったり、ハグだったり、または介護での身体介助も、そうした「人の体にふれる経験」だと言えます。ただ、どうでしょう。物や自分の体にさわることは多い一方、人の体にふれることは機会や関係性がないと生まれないような気がします。また求めたり、拒絶したり、躊躇ったり、差し伸べたりと、人になると急にいろんな欲求や感情が絡んでくる。そんな独特な感覚をもつ「人との触れあい」、それが同書のテーマです。

「物にさわること」と「人にふれること」、何が違うのでしょうか。例えば、静止している物を手で動かすとします。そのとき物側から反応はありませんし、大抵の場合は自分の思い通りに動かせるでしょう。しかし、人の体はどうでしょうか。ふれる対象も自分と同じ人間です。当然、相手からの反応=リアクションがあるわけですし、接触面のわずかな力加減などからお互いの態度が分かったりします。また自分よがりに動かそうとすれば、抵抗されるでしょうし、その後の触れあいの流れは、常に相手との関係によって決まるでしょう。つまり人の体にふれる際には、その接触面を通して、何かしら相手とコミュニケーションを取ることになるのです。ただし、それは言葉を介したコミュニケーションではありません。今回紹介する『手の倫理』では、触覚=手を介したコミュニケーションの特徴に焦点が当てられ、触覚固有の二者関係について論じられているのです。

題名にある「手」に続いて、「倫理」という語に目を向けましょう。この「倫理」は、よく「守らなくてはいけないルール」を指し、「道徳」と同じ意味として用いられることが多いかと思います。両方とも「善」に関わる概念ですが、同書では「倫理」と「道徳」を区別し、前者のあり方に力点が置かれます。このとき「道徳/倫理」は、大きく「抽象/具体」「一般/特殊」と特徴づけることができます。つまり「道徳」は、いつ何時でも成り立つ(べき)画一的な正しさを志向するのに対し、「倫理」的な態度は、すでにある「〜すべし」という杓子定規に縋らず、置かれている具体的な状況に向き合い、また悩みながらも自分なりに最善の答えを出す方向に向かいます。別の言い方をすれば、「倫理」とは、具体に向き合い、その困難さを経由する態度なのです。これを踏まえると「手の倫理」とは、触覚特有のコミュニケーション形態を通じて、目の前の相手と向き合い、困難を感じながらも善い関係をつくっていくことだと言えます。


ゆだねると入ってくる

文中では「あずけると入ってくる」という表現なのですが、ここでは語感的に「ゆだねる」を使ってみたいと思います。他にも同じニュアンスとして「手渡す」や「ゆずる」なども使われています。この「ゆだねると入ってくる」は、同書の第3章から第5章まで横断的に語られているため、以下、自分なりに再構成しようと思います。

この「ゆだねると入ってくる」とは、身体を通じたコミュニケーションの特徴です。先ほど人が人と触れる際には、その接触面で情報のやり取りが生まれると言いました。そのやり取りの中で、「触れあいの流れ」が随時、決まっていくわけですが、そのとき重要なのが「ゆだねると入ってくる」ことです。言葉を補えば、相手にコミュニケーションの主導権を手渡すと、相手からの情報が自然に入ってくるということになります。

この状況は、それとは逆の「ゆだねないと入ってこない」を考えると、よくわかるかと思います。コミュニケーションの主導権を相手に渡さない、つまり「触れあいの流れ」を自分がコントロールしようとしたときには、自分の中に相手を受け入れる余地などありません。そのとき自分の身体は自分の意図で埋め尽くされ、相手が入る隙はないのです。また、このように来られたら、一方の相手は抵抗するでしょうし、相手の身体も「抵抗の意」で強張ります。この場合、相手もこちらの情報を受け取れる柔軟性はありません。結果として、そこには「確固とした私」と「確固としたあなた」しか存在せず、コミュニケーションは互いの意図=主張のバトルになるでしょう。これは、ほぼ喧嘩の「とっくみあい」です。

そのように自分の意図通りに「触れあいの流れ」をもっていこうとするのではなく、「触れあいの流れ」を相手にゆだねてみる。すると、相手の情報が身体を通じて自然に入ってくる、それが「ゆだねると入ってくる」の意味です。ただ現実的には全てをゆだねるわけにはいかないため、相手にゆだねた分だけ、相手の情報が入ってくることになります。それは、自分の身体を意図で満たさなければ、そこには何かしらのゆとり、スペースができ、その余白に相手の情報が入り込んでくる、そういった感覚です。これによって、互いの情報がじわじわと共有されていくのです。また、その感覚は、相手から「伝えられる」というより「伝わってくる」というものでしょう。相手が意図して伝えようとしているものだけではなく、無意識に考えていること、もしくは気づいていない体の状態、そういうものまで「伝わってくる」のです。このように「ゆだねると入ってくる」は、互いの身体が確固たる2つの伝達主体ではなく、部分的に互いを繋ぐメディアとして機能するときの特徴だと言えます。

ここまでの議論を見ると、一方的な関係ではなく、相互的な関係の方がより倫理的と言えるかもしれません。つまり、あらかじめ持っている意図にコミュニケーションを沿わせようとするのではなく、具体的な相手の状況に応答する、相手の体の声に耳を傾ける方が先ほどの「倫理」と対応します。しかし、われわれには相手に踏み入れられたくない部分やゆだねられない部分があるのではないでしょうか。または無意識にこだわっている部分もあるかと思います。それによって、体がどうしても「頑(かたく)な」って、そこだけやり取りがぎこちなくなってしまうこともあるでしょう。もし相手のそういった部分にふれてしまった時、そこはあえて「そっとしておく」ことも必要なんだと思います。こうした判断は形としては相互交流の遮断になりますが、この判断こそ、倫理的なのではないでしょうか。具体に向き合っているからこそ距離を取る。状況に応じて、距離を設定し直す。このような議論は同書にもいくつかみられ、話を「触れあい」だけで押し切ることはありません。それが同書の洞察がもつ深みのような気がします。


「混じり合う」ための技法

最後に、第5章「共鳴」で取り上げられている視覚障害者の長距離走とその伴走について紹介したいと思います。同章に登場するのは、東京を中心に活動する「バンバンクラブ」という目の見えないブラインドランナーと伴走者のコミュニティです。著者は、実際に目隠しをして伴走されてみたり、またベテランランナーへのインタビューなどを通じて、手を介した関係の本質を探ります。

その際、著者が注目するのは、ブラインドランナーと伴走者をつなぐ「ロープ」です。ブラインドランナーは目が見えないため、目の見える伴走者を通じて曲がり角の存在やカーブの度合いを知ることになります。その際、伴走者は直接手を引っ張って伝えるのではなく、輪っかにしたロープを介して共有するのです。つまり情報共有は、がちがちに固定された繋がりではなく、少しゆとりのある、あそびのある繋がりを介して行わなれます。また、このロープは情報共有以外にも、ふたりの走りがシンクロする「共鳴」状態をつくりだすというのです。著者は、そうした「共鳴」は、このロープのがもつ「あそび」によって発生すると言います。

「このあそびがあるからこそ、ずれを通してお互いの状態を感じ取り合うことができる、ということです。つまり「生成的」コミュニケーションができる。ゆるいロープによってつながりを間接化することで、二つの体の動きが衝突することなく、混じり合うことができる。」(p. 157)

「ゆるいロープによってつながりが間接化」される。これにより、互いのちがいが「衝突」ではなく「ずれ」として現れるのです。そして、その「ずれ」を、ふたりの体の余白が受け取りあって、ふたりの体が混じり合っていくわけです。もし直接つながっていたら、お互いの走りはその都度「衝突」し、その「衝突」を避けようと体が変に緊張してしまうでしょう。それでは、ふたりのちがいを上手く受け取り合うことができません。つまり、ロープによって「つながり」=「即物的な接触の条件」を変えることで、生み出させるコミュニケーションの形態を変えているのです。伴走における「ロープ」は、身体がもつメディアの側面を引き立てるような技術=技法と言えるでしょう。

また先の引用で注目したいのは「混じり合う」という表現です。この状態は、同書でたびたび「一体化」とは違うと指摘されています。確かにふたりの走りがシンクロしている状態は「ふたりが一体となっている」と言ってもいいのかもしれません。しかし、それは「ロープ」によって「混じり合い」が極限まで高められている故に、「一体化」しているように見えるだけです。「混じり合い」は「一体化」、つまりお互いの内面が通じ合い、動作に一切のずれも起きないこととは異なります。むしろお互いの差異はあるのです。その差異がロープや身体の余白を介して拾い合われることで、ふたりの間に「共」が生成されていく、それが「混じり合い」なのです。ここには、心の同調ではなく、身体がもつメディア性を活かした「共」の可能性があると言えるでしょう。『手の倫理』は、互いの違いに向き合いながらも「共」をつくりだす契機を、触覚や身体が持つ特性から導いているのです。


*本文は、参宮橋にあるギャラリーカフェまのまの書評冊子「まのま日和 vol.3」に収録される予定である。


ギャラリーカフェ まのま

参宮橋公園の裏口から2軒目にあるギャラリーカフェ。美大生を中心に2021年春に期間限定で開催。現在は「気ままにゆるり と」不定期営業。開店日は Instagram にて随時告知。 

https://www.instagram.com/ma__no__ma/?hl=ja


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