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アウトプット

別のnoteにも書いていますが、公務員時代から長いこと自主勉強会活動をしています。

活動をしていてよく言われるのが「それって意識高い人たちが集まってるんですよね?」という台詞です。

こう言われる時のニュアンスとしては「それって『意識高い系の人たち』が集まってるんですよね?」という風に感じるのですが、どうも世の中では「意識高い」に「系」という文字をつけると一気に相手を貶める言葉となるらしく、こんな解説まで出る始末です。

上記サイトの定義を活用させていただけば「系がつくかつかないか」は、自分を相対評価の中で見るか、絶対評価の中で見るかの差であるように思えます。

まず大前提として、自分のプライベートな時間を使って自主的に勉強会に参加するような人が意識低いわけがないです。
ただ、多くの場合それは「純粋な学習意欲」の発露である場合が多く、「自分こんなことやってるんだぜぇ~。」と見せびらかす意図、言い換えればそんなことをする必要性など一ミリもない人が多いです。

とはいえ、逆に他人への顕示欲が元だったとしても、個人的には「自分、意識低いんだよね。」と斜に構えるより、多少勘違いでも意識高くしてた方がよくね?とすら感じます。

まぁ、ずっと単なる勘違いのままだと中身空っぽのイタいやつができあがるだけですが、それはそれで本人の選択だからいいとして(笑)、安全地帯で他人を揶揄しながらなにもしない人よりは万が一にも化ける可能性があるだけまだマシだろうと思うところです。

よこはまYYラボのメンバーを見ていて思うのは「意識が高い」どころの騒ぎではない「こだわりがある」ということです。
それぞれのメンバーが「自分はこれに関心がある!」というものをなにかしら持っているか、そういうものがなくても他のメンバーからのそれぞれのこだわりを聞いているうちに感化されていくというような現象が起こっていて、その相互作用の中で学びの発動が起こるという構造があるなぁといつも感じています。

とか書くと、メンバーからは「面白いと思うからやってるだけだもんね~。」とか言われそうです。(笑)

確かにYYラボはテーマ型勉強会ではなく「この指とまれ型の超実践型勉強会」なので「面白いね~。やっちゃおう~。」と複数人が賛同すればイベントが発動してしまいますが、多くの方に認識していただきたいのは、なにかをアウトプットするのは「面白い」だけではできない、ということです。

「アウトプットをする」という行為には常に相手が伴います。
「自分達がアウトプットしたものを相手がインプットした時に「何か」が生まれることへの期待」を目的にしないとアウトプットはあまり意味のないものになるからです。

YYラボでは相手に少しでも多くのインプットを持ち帰ってもらえるよう、イベントテーマはどうするか、どういう場を設えるか、時間の割り振りをどうするか、どんなツールを使うかなど、様々な検討をラボメンバー同士でしながらアウトプットを重ねていて、その活動自体がまた自分のインプットになっていくという循環を生んでいます。

あなたは最近誰かに届けたい「アウトプット」をしましたか?