初めて他人の子供を叱って後悔した話。
少し前になるのだが、とても非常識な行動をしていた他人の子供を初めて叱った。
他人と言うからには、身内や知り合いでもなく、名前も知らない偶然その場に居合わせた子供。
子供相手に何やってんねん…と思うかもしれないが、彼の行動は自分がされたら嫌なことだった。
とある大型スーパーの駐車場に、ブース型のATMがあった。平日だがお昼時というのもありブースの外にも片手ほどの行列ができていた。
私まであと2人となった時、私の後ろにある親子が並んだ。わざわざ振り返ることもなくスマホに目を落としていたのだが、その子供の行動が視界に入り、あまりの違和感に視線をあげた。
後ろに並んだ子供、おそらく小学校中学年くらい、140cmくらいのスラっとした長い手足にPコート、おかっぱ頭の菅田将暉を思わせるキリッとした育ちのいい風貌をしていた。
しかし行動は真逆で、ブース内で手続き中の方がいるのにドアを開け閉め繰り返しブースの中に入った。と思えば出たり、また入るの繰り返し。中にいる人も狼狽えつつ出て行った。
次の人も訝しげにブースの中に入るが、同じ状況。男の子はブースの外にいる時は扉を叩いたりスロープの手すりをガタガタ揺らしたりとにかく忙しなく動いていた。
もしかしてみんな知り合いとか?
見た目より実はかなり幼い年齢なのかな?
えっ、私の番も同じ感じなの?
私は聖母マリアでもなければマザーテレサでもない、どちらかというとパーソナルスペースを侵されるのが苦手なタチ。
絶対嫌なんだけど…。
そして、私の後ろにいる母親は何をしているのだろう…怒らないの?
怒る状況じゃないの?
私が神経質なだけ?
わざわざ振り返り母親の様子を伺うと、その行動が圧力みたいになるのでできない…。
あれよあれよという間に私の番になり、ブースの中に入る。…案の定、男の子は私のいるブースの中に入ってき、扉を閉めたり開けたり。出たり入ったり。時には私の操作板を覗き込んだり。
正直とっても不快に感じてしまいました。彼に、というか彼を注意しない扉の後ろにいる彼の母親にも。
私は昔から「年下に舐められる」性格だと自負している。小学生の時から年下の学年からからかわれ、年上の学年からは可愛がってもらった。からかいの範疇を超えたこともあり、実は男の子の子供が少し苦手。正直自分発信で見ず知らずの他人に意見を言うということは、私にとってはかなりの冒険で勇気のいることだった。
でも、どうしても彼の行動が我慢できず、ブースの中に入ってきた彼に伝えてしまいました。
「あのね、お金扱っているところ見られたくないから出ていてもらっていいかな。見られたくないのだけど。」
口調によっては優しく諭しているようなセリフですが、語気は強くないものの不快を混ぜた伝え方だったと思います。
男の子は何も言わず扉をあけ外に出ると同時に、扉の外にいる母親に「怒られたよ」と報告をしていました。怖がっている様子でもなく、バカにした様子でもなく、ただ淡々と報告、という口調でした。
そして彼の母親はスマホから視線を上げることなく報告を無視し、彼はまたブースの外を飄々と漂っていました。
ブースから出ていく彼の行動を目で追っていた私はその光景が信じられず、呆気。
同じ男の子の母親として、彼女はどうして彼を叱らないのか信じられない。
他人から注意されたことを飄々と受け流す彼が理解できない。
この場でおかしいのは私の方なのではないか、何故だろう?え?何で?
ブース内で用事を済ませ、自分の中で初めて他人お子供を叱った経験は空振りに終わった。
不快な気持ちは一向に晴れず、やり場のない気持ちを抱えたままその場を離れることになりました。
彼の母親に対して怒りのような気持ちもあったのですが、スーパーを後にし車のハンドルを握る頃には怒りを通り越してその時はじめて「疑問」に変わりました。
数日経って、この出来事を自分の中で納得できる答えを出してみました。
完全なる推測です。
私の基準になりますが。
普通であれば自分の子供が他人に叱られたら、謝罪するか、叱った他人に怒りを見せるなど何かしらの反応があるはず。
しかしそれをしないということは、こういう状況に慣れている。そして男の子がこういう行動をするのが当たり前であるということなのでは。
余談だが、私は0歳の息子の行動で気になる行為があり一時期発達関係の動画を身漁っていた。その中でよく目にした行動。
あの男の子の行動が当たり前ということであれば、おそらく彼は多動ということになるのではないだろうか。そうなれば彼のせいじゃない、生まれ持っての性質だし、母親が彼を叱る要素にもなりえない。
もしそうなのであれば、あの母親がスマホから視線をあげず彼を無視した行動にもいくつかの理由が考えられる。
多動であることは彼らにとっては日常である。または、男の子の行動について私と同じように叱責する人の対応に辟易しているだとか、もうつらくてスマホから顔を上げることができないだとか。想定の範囲内でもいくつかの理由が考えられた。
そしてもし、あくまで推測であっても、親子の行動が発達に関するものであったとしたら、私が叱ったことは正しい行動だったのだろうか。
推測であるのだからそうであった根拠はない。でもそうなでなかった証拠もない。
だとしたら、その場でそういう想像を働かせることができなかった私の、怒りに任せた行為だったのでは、と気づいた。
そもそもなぜ、発達関係の問題ならば私は叱ることができないのかという話。
息子をよく連れて散歩する遊歩道にあるベンチがあり、よくそこに座って息子と車を眺めている。
陽が落ち始めた夕方にそこに座るのだけど、決まって同じ時間にそこに支援センターの通学バスが停まる。降りてくる子供たちは多動の子もいて、バスを降りた瞬間走りだす子を走って追い捕まえ、咄嗟の判断で落ち葉を拾って子供に持たせているお母さんの行動を目にした。走り出そうとしていた子供は落ち葉に気を取られ大人しくなり、その間に慣れた手つきでハーネスを取り付けながら通園バスを見送るお母さん姿をみて、素直にすごい!と思った。
私なんかがそう思うことが失礼になるかもしれないけど、素直にそう思った。先述したが発達系の動画や漫画の知識しかないけれど、そのスムーズなやりとりには私たちには計り知れない苦労があったのではと思った。
何も知らない私が、そういう子たちの行動に「これはいいこれはダメだ」と個人の感想で感情を伝えるのはどうなのかな、とあのお母さんの行動を見て思った。
こういう経験があってから、知らない世界に私の基準を合わせて話をするのは(わたしは)良くないのではないかな、と心に留めていたのでした。
それなのに、結局そうかもしれない場合に遭遇したのに、結局私は自分の不快を伝えただけだったのでは、と気づけば後悔になりました。
どこの誰かもわからない親子。
真相はわからないけど、そうだったらごめんなさい。
私の幼稚な不快と怒りは疑問に代わり、後悔になり、自分の考え方を見直すきっかけになりました。でも、自分の不快で誰かを不快にさせてちゃダメだよな。
やっぱり、私はまだまだだ。
来月36歳。
日々、勉強です。
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