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十月桜の想い人。

10月15日

この特別な日に何かしてないといられない。
25年前のロンドン、バービカン劇場で、当時15歳の藤原竜也さんが舞台身毒丸デビュー公演に立った。

そして彼を演劇の世界に生みおとした、
演出家 蜷川幸雄さんのお誕生日である。

お二人の出会いが運命であり必然だと感じるのは、この“始まりの日”が重なることも大きな理由だ。

部活から帰ったあと、家族の帰宅を待つリビングで夕方再放送の『あぶない刑事』を熱心に観ていたり
雑誌に載ってみたいなぁ〜、なんて年相応の憧れを抱いていた サッカーと友達が大好きな少年は
天才演出家によって才能を見出され、学校に通いながら稽古に励み、その演出家の生まれた日に、イギリスで本番初日を迎える。

近年この日は平日だったから縁あるお店でお祝いを兼ねて食事するのがお約束だった。
今年は土曜日で、天気も良さそう。
これは行くべきだと確信した。 

藤原竜也さんの故郷、埼玉県秩父市へ。

池袋発の西武ちちぶ特急ラビュー号 
車内でも『身毒丸』

テレビ番組でも10〜20代の頃から紹介されていたしご本人もいろんな場所で話してくださるし、
『カイジ』でも凱旋イベントされていたのに、
秩父市出身のイメージがつかないのは何故なんだろう……。(みんな回道シリーズ見てください)
長瀞や三峰神社など大人気観光スポットで有名なのは言わずとも知れているけれど、秩父のど真ん中で町の人たちのあたたかさに触れるたびに、竜也さんから伺う魅力を強く深く実感できる。
秩父なしで彼は語れないと思う。

西武秩父駅を降り立つと、電車の中から感じていた賑わいが市内にも広がっていた。
どうやら番場町(秩父神社の前に見通せる商店街)で、町内のイベントがあるらしい……!
特別な日に合わせてこの土地を訪れることが多いけれど、この偶然には心が踊った。


賑わいを傍らに足はまっすぐと見晴らしの丘へ向かう。秩父へ来るときはいつもここが一番だ。

「この町の匂いが好きなんです」と大好きな故郷の時間を噛み締めるように語る彼の横顔が瞼に浮かんでくる、一番、好きな場所。

荘厳に聳え立ち、町を守る龍神が住む武甲山の懐に飛び込むように傾斜を上る。
石段を上がってベンチが見えると、その先には町のあたたかな景色を見渡せる。

まだ雲が多い空ではあったものの、
やっぱりここの風は心地よく迎え入れてくれる(ような気がする)。
思えば、春、夏、冬とここでの空気を味わってきたけれども十月に来られたのは初めてのことだった。
ありがとう土曜日……ありがとう秩父……。

昨年、フジテレビ系ドラマ『青のスクールポリス』のラストシーンを秩父で撮影した際も、竜也さんがこの柵に腰掛けてやわらかな表情で写真を撮ったらしたのは記憶に新しく、ここ、ここ!と駆け寄ってしまう。


まだ10代、しかし中学卒業とともに地元を離れて、東京で一人暮らしをしながら芝居と向き合う人生を選んだ彼は「ここに帰って来れないのは寂しい」と本音を吐露した。歴代マネージャーの思い出を読んでも、ドラマの撮影前に「どうしても帰りたい」と無茶を言ったこともあったそうだ。
その寂しさを隠すように、
「この町が大好きです」と笑った。

だけどすぐ「気軽に会えるのが秩父なんです」と、自分に言い聞かせるように「何も心配いらない」と頷き、育ってきた町を見つめていた。


つい時間を忘れて、透明な空気に吸い込まれそうになってしまう。
改めて芝桜の丘へと向かった。


ここは今年4月も芝桜を撮りに来ていたので、頭の中にある地図だけを頼りに景色を楽しみながら進む。
この日も+6㎝ほどのヒールを履いていたけれど毎日1.5〜2万歩は行く脚力には自信がある。山道を進みながら木漏れ日を浴びてとても気持ちがよかった。

薄々勘付いてはいたけれど、正規ルートではなくて後ろ側(上側?)から回ってしまったらしく、
コスモスに気を取られているうちに公園の羊たちのところまで来ていた。

芝桜の丘はもう少し手前にあるのだけど……武甲山を見上げていれば小さいことは気にならない。(一人旅の醍醐味)

地元の中学生たちが植えたのだと言うコスモス、
教えてくださったのは通りかかったおそらく管理の方だった。

芝桜も撮りにきていた話をするとポストカードをお裾分けしてくださり、本当に秩父の方々のおおらかさ、優しさには感謝しきれない。

青い空に広がる緑の景色を見られただけでも、心がマイナスイオンで満たされ癒されていたのだけれど
「いまは十月桜が咲き始めてるよ」と、並ぶ木々を指で示し、教えてくださった。



ピークは11月になるけれど『十月桜』と呼ばれる。まとまって咲くことはないらしく、ひっそり小さな花弁が風に揺れる様がどこかさみしく美しい。
花言葉は「神秘的な心」。


「長い間、春が苦手だった」と仰った
蜷川幸雄さんの言葉を思い出しながら、薄く不揃いな形が愛おしいこの十月から咲き始める桜を見て、ある想いが去来していた。

美しさと孤独は隣り合わせなのかもしれない。

先日のラジオで「演劇は消えて行く芸術」と仰った竜也さんの声が耳の奥に響く。

役者がどれだけ命懸けで板の上に立ち、
セリフを客席に届かせ感動させたとしても
どんなに観た人の心や人生に影響を与えたとしても
観た人にしか分からない感動は確かにあるし、
演劇の間口が広がっても、生きたままの演劇は、
いつか“消えてしまう”。

大きな存在を残す蜷川幸雄さんの演劇、言葉、作品も、いつかは観た人々も少なくなってしまう。

蜷川さんが亡くなって
「芝居を続ける意味が分からなくなった」と
暗闇の中もがき続けながら、
それでも芝居に生きてくださった。

6年経って、今、大きな舞台『ハリー・ポッターと
呪いの子』の主役を走り切った彼が口にしたのは、
演劇の刹那性と蜷川さんへの尊敬の言葉だ。

日本人では通用しないと言われていたことを、
演劇の本場ヨーロッパで成功を収めた確かな実績、
その才能。
それらはすべて、共に芝居をしながら、
時には遠くアテネまでその公演を追いかけて
ご自身の才能を見出してくださった背中を見ていた竜也さんだからこそ、真に理解できるのだろう。


2000年刊行の米国ブロードウェイPLAYBILL誌提携Theater Guideのインタビューで、
デビュー以来2度目のバービカン劇場、
三島の近代能楽集『弱法師』俊徳の稽古の前にこう語っている。

「僕がこういう芝居をやることで、
見に来てくれた若い人が、こんなに綺麗な物語があることを知るっていいじゃないですか。」

15歳で『身毒丸』と出会った彼は、
その詩的で日本人特有の“間”をもたせる
寺山修司、岸田理生が編んだ言葉に夢中になった。
「言葉を宙に置くように」せりふを言うこと。
やわらかく真綿のような感性で
美しい言葉を吸収し、光と音楽に合わせて動き、
舞うことで自分の血肉とする。

それは「ほかの何にもかえられない時間」だと
少ない言葉で目を輝かせた。


『身毒丸』デビュー後も、
岸田理生脚本『大正四谷怪談』、
『唐版 滝の白糸』そして三島由紀夫……
その後もシェイクスピアやチェーホフと言った古典戯曲を中心に、その才能を磨き続けてこられた。

向き合ってきた時間の途中で失った存在はあまりに大きいけれど、
美しくきれいな物語を、時代を超え生き続けてきた竜也さんがたどり着いたのは“継承”していくという恩返しとも呼べる仕事なのではないか。
夢と現実の間で存在することの儚さと、
対峙する覚悟の強さに涙が出る。



10/15 秩父の旅にはまだまだ続きがある。
しんみり書いてしまったけれど、この日は天気にも恵まれて本当に心が弾むことしかなかった。
帰宅してから見た1日の歩数は4万を超えたほど、
楽しかった思い出の続きはまた書くことにする。

この日に十月桜の尊さを教えてくださった
管理の方へ、心から感謝を申し上げます。

そして演出家、蜷川幸雄さんへ
これからも貴方が遺してくださった芸術や作品、
そして藤原竜也さんというたからものを
記憶とともに愛していきます。
感謝を込めて。


蜷川さんの演劇が、言葉が恋しい。
この想いだけは
竜也さんを愛する一生で消えることはなく、
誰より竜也さんが受け継いでくださると信じて。