まずは掲げる 〜“生活者の探究”の探究 Vol.1〜
“生活者の探究”
このnoteは、僕が勝手に名付けた営みについて考え、掲げていくためのものです。
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探究、という言葉をよく聞くようになった。
2020年から小学校(中学校は2021年、高校は2022年)で適応されはじめた新学習指導要領において、「総合的な学習の時間」が「総合的な探究の時間」へと変更されたのが大きなきっかけだったのでは、と思っている。(ちゃんと調べたことはないし、僕が気になり始めたのもここ数年なので、違うかもしれない)
じゃあ、ここで言う“探究”ってなんなんだろう。
学習指導要領では、こう書いてある。
知的営みかぁ。なるほど。
気になって、他ではどう表現されているのか、いろいろと調べてみた。
手法的な観点なものと、性質的な観点なものが混じってはいるが、どうやら少しずつ異なっている。けど、それはクリティカルな違いというより、その人自身の“こだわり”が反映されたものだと感じた。
じゃあ、僕は探究に対してどんな“こだわり”があるんだろう。
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僕が、探究という言葉に惹かれ始めたきっかけ…があったら良いんだけど、特に劇的な出会いがあったわけじゃない。昨年に少しだけ、中高生向けの探究塾の立ち上げに関わったことはあるけど、その前から興味はあった気がする。
でも、なんとなくのタイミングはわかる。それはきっと、社会人2年目の冬、精神的に体調を崩してから。
社会に馴染めない自分。どうやって生きていけばいいのか。そもそも生きていていいのか。なんで生きているんだろう。生きる意味ってあるのかな。自分ってなんなんだろう。
元々「お前は悩むのが趣味だ」と友達に言われていたから、そういったことを考えるタチではあったんだろうけど、その傾向は確実に加速した。
どんどん気になることが増えていく。
なんで“できる”は偉いんだろう。異なる人と人は分かり合えないのかな。成功ってなんなんだろう。なんで他人の目を気にしてしまうんだろう。居心地のよさってなんなんだろう。
「そんなの考えているから、しんどいんじゃないの?」と何度も言われた。でも、僕にとっては逆で。こういった引っかかりを横に置いて走ろうとしたとき、決まって体調が悪くなる。自分に「考えるのは無駄なんだよ」と声掛けした夜、次の朝に起きれなくなる。
日々を生きていくなかで、心に引っかかったもの。それを見過ごさずに、ちゃんと触ってあげる。
僕にとってこの営みは、忙しない日常のなかで、“他でもない自分”を手放さずにいるために欠かせない営み。
2021年の4月には、こんなことを記していた。(体調を崩して1年半後のこと)
この頃には、「すぐに答えがわからない問いを考えることは、その人らしさに繋がる」という想いが生まれていたらしい。
そして“探究”という言葉に、この想いをかざし始めたんだと思う。
だから、いまの僕が“探究”について表現すると、こんな風になるのかもしれない。
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あくまでも僕が考えているものだから、ここに正しいだの間違っているだのはない。信念みたいなものだと思う。
その前提のうえで、僕の信念に現れているこだわりを考えてみると、
①日常における引っかかりを扱う
②主眼は社会ではなく“ちっぽけな自分”
の2点になるのでは?と感じた。
日常における引っかかりを扱う
ここでは、あえて“問い”という表現を使っていない。前述のnoteでは問いと書いたけど。
それは、問いって聞くと、急に高尚なものに感じてしまう(気がする)から。もちろん、ワクワクするイメージもあるけど、なんだかつまらないものは出したらダメなのかな…と及び腰になってしまう。
その点、“引っかかり”から受けるイメージは軽やかで。モヤモヤと言ってもいいかもしれない。
そもそも、人間が生きていて、1日24時間を「なににも引っかからずに過ごした」ってことはないんじゃないか、と思う。
同僚に挨拶されなかった・肩がぶつかって舌打ちされた・SNSで嫌なニュースを見た・MTGで発言できなかった・原稿が書けなかった…etc
よくよく考えると、日常は引っかかりでいっぱい。それは、一時的なものに過ぎないかもしれない。多くは、気が付いたら心から取れている。
でも、そのうちの何個かは、心に残り続ける。もしくは、何度も心に引っかかる。
それらは、“問い”という網ではこぼれ落ちてしまうけど、“引っかかり”という網では掬い上げられるんじゃないか。
僕にとっての探究は、日常に紐付くものなんだと思う。
主眼は社会ではなく“ちっぽけな自分”
日常の引っかかり、とも被るけど、別に「社会にどう役立つか」なんて考えなくていい。
考えてもいいけど、考えないといけない…わけでは絶対ないと思う。
探究を進めることで、他でもない“自分”として生きる、に繋がればなんでもいい。
「社会を前進させるための思考」と「自分として生きるための思考」は、わけて考えるべきなんじゃないかな。
重なる部分もあるとは思うけど、後者でしかない思考はたくさんある気がする。
そもそも、最初から社会のことを考えていたら、日常の引っかかりなんて見過ごしてしまう。「もっと大きなところに目を向けなきゃ…!」と焦って、足元の石に気づかずに転んでしまう。
僕にとっての探究は、まずひたすらに、ちっぽけな自分のためのものなんだと思う。
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今年の1月、そんな信念をちょっとだけ開いてみよう、と思って、数人の友人に声を掛けて始めてみた集まりがある。
「はしらずとも」と名付けた集まり。一緒にいろいろ考えたいなぁ・この人は日頃どういうことを考えているんだろう、と気になっていた人たちを誘ってみた。
一人ひとりがテーマを持って、それに付随する学びやら思考やら対話やらを進め、分かち合っていく。そんな営みをゆるりと始めてみた。
(ちなみに僕のテーマは「使えないヤツと思われる恐怖…に抗う」にした)
みんなのテーマには、その人らしさが映し出されていて。そのテーマを深堀りするなかでの発見で、その人のことが分かった気になったり、さらに分からなくなったり。
友人たちがどう思っているかはわからないけど、僕自身は、この場を開いてみて「他でもない“自分”として生きている」時間が増えたように感じている。
信念が深まった気がして、なんだか嬉しく思っている。
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…みたいなことを考えたり、やってみたりしているなかで、最近は、もっと“探究そのもの”について想いを馳せたいなと思うようになった。
探究、探究と言ってきたけど、それってなんなんだろう。どういう意味があるんだろう。
現時点での信念は書いた。こだわりもある。けど、満足はしていないし、完全にしっくりもきていないし、見落としている要素もある気がするし。
探究の探究を進めていきたい。
でも、それだとなんだか広すぎる気がする。ワクワクしない。僕が探究したいのは、ただの“探究”なんだっけ…?
ぼやっとそんなことを思って、数ヶ月過ごしていた。そんなある日、ふと思い出した小説があった。
それは、恩田陸の『蜜蜂と遠雷』。
ピアノコンクールを題材にした小説で、いろんな天才がコンクールに出場する。そのなかで、唯一“天才じゃない人”として描かれるのが高島明石。
明石は、ピアノで食べているわけではなく、楽器屋の店員をして家族を養いながら、コンクールに出場する。肩書きは、一介のサラリーマン。
そんな明石が、物語の冒頭で怒りと疑問を心のなかでつぶやく。
生活者の音楽。
「あ、これかもしれない…!」と強く感じた。
探究という言葉をよく聞くようになり、教育だけではなく、ビジネス分野でも広まっている。
不確実な時代を生き延びるために――
自分で考えるチカラをつけるために――
より良く成長するために――
いろんな目的が掲げられ、探究が持ち上げられている。それを否定する気はないけど、僕が惹かれている営みではない気がする。
僕にとっての探究。この不完全な信念を、引っ張ってくれる言葉。北極星となる言葉。
それが“生活者の探究”だった。
高尚なものじゃない。壮大なものじゃない。日常の引っかかりをもとにした、ちっぽけな自分のための探究。
まさに“生活者の探究”。
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ここ数週間で名付けた営みだから、まだまだボヤっとしている。この言葉にたどり着いた流れを書こうと、noteの編集画面を開いたはいいものの、この時点で右上の文字数カウンターは“4389“を示している。びっくり。
でも、なんだかじんわりと熱くなるものがある。燃えるような炎じゃなくて、とろ火で身体が暖まっていく感覚。
“生活者の探究“の探究をはじめよう。とろ火だから、煮立つまでは時間がかかるだろうけど。
そんな、ゆったりとした熱が、僕にとっての「他でもない“自分”として生きる」ってことなんだと思う。
焦らずに、それこそ走らずに、進められたらいいな。
“生活者の探究“の探究を。
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