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インタビューとは暴力だ。それでも書く理由を、僕はまだ見つけられていない。

所属しているライターコミュニティで、『断片的なものの社会学』(著:岸政彦)の読書会が開かれた。

ライティングとは直接関係なさそうな本書だが、社会学でも「社会調査」と呼ばれるインタビューが行われる。そこに紐付けて、ライターとして行っているインタビューを捉え直し、考えを巡らせよう、という骨太な読書会である。

あぁ参加して良かった。心からそう思うと同時に、この読書会を経て、僕は“人から話を聞いて書く”という行為にどう向き合ったら良いのかが分からなくなった。

“人から話を聞いて書く”、つまりインタビュー記事の執筆とは、どういうことなのか。そんなことを考えなくても、ライターを名乗ることはできる。けれど、その行為が抱える危うさを自覚することは、ライターとして、いや人間として大切なひとピースなのではないだろうか。今ではそう思う。

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こうした断片的な出会いで語られてきた断片的な人生の記録を、それがそのままその人の人生だと、あるいは、それがそのままその人が属する集団の運命だと、一般化し全体化することは、ひとつの暴力である
(『断片的な社会学』p13)

読書会で僕の印象に残った議論は、本書のこの一節に集約されている。「断片だけを見聞きし、そこから一般化し全体化することは、まぎれもない暴力なのだ」という事実。

ここでいう暴力とは、物理的なものを言わない。言うなれば「他者に対する力の行使」とでも言うものだろう。

まぎれもない暴力。それがインタビュー記事には潜んでいるのだ。

実際のインタビュー記事の作成で考えてみる。

例えば、とある人の人生を紐解くライフインタビューを書くとなったとする。まず考えるのは、記事の目的だ。インタビュー記事を作成する際、何も目的がないという方が珍しいだろう。この記事を通して、読者に伝えたいこと・感じ取って欲しいものが存在するからこそ、インタビュー記事の企画が成り立つ。目的を理解した上で、実際のインタビューに臨む。膨大な時間で形成されたその人の“人生”を、たったの1,2時間で教えてもらう。そして、そこで話された内容を目的に沿った形に編集する。そして、インタビュー記事として公開される。

いくつか手順を省きはしたが、ざっとこのような流れでインタビュー記事は出来上がる。

このなかで暴力を生み出すのは、「①膨大な時間で形成されたその人の“人生”を、たったの1,2時間で教えてもらう」点。そして「②そこで話された内容を目的に沿った形に編集する」点の2つだろう。

言わずもがな、その人が生きてきた時間分だけ人生は存在する。その膨大な時間をたったの1,2時間で聞こうとすると、どうしても情報の切り取りが発生する。取るに足らない日常の思い出・ささやかな喜びなどは、捨象されることが多い。要は、話される内容は“断片”にしかなりえないのだ。

そして、インタビュー記事はその断片を元にして執筆するしか他ない。その断片を目的に資する形に編集する。その過程では、厖大な人生から切り取られた“断片”を、さらに断片化し組み替える作業、つまりは断片にひとつの文脈を付与する作業を経て、ようやくインタビュー記事が完成する。

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人生の断片をさらに断片化し、文脈化する。こうして出来上がったインタビュー記事は、話し手の人生を表していると言うことができるだろうか。

ここまで丁寧に追った場合は、「否」と言うことができる。けれど、日常でインタビュー記事を読んだときはどうだろう。その記事から読み取ることの出来る情報だけで、「この人はこういう人なのか」と結論づけてしまうのではないだろうか。

まさに「断片だけを見聞きし、そこから一般化し全体化すること」が起こっている。

この全体化が持つ暴力には2種類ある。ひとつは、話し手のことを勘違いさせてしまう可能性。もうひとつは、話し手自身が記事の印象に寄ってしまう可能性だ。

ひとつめは分かりやすい。記事中での印象と、話し手の人生は必ずしもリンクしない。にもかかわらず、その人をフィルタリングしてしまうのは紛れもない暴力だろう。

ふたつめは、記事で語られたものを頼りにして、話し手が「自分はこういう人です」という自己認識を持ってしまうことだ。繰り返し言うが、記事は断片に過ぎない。その断片を人生と語らせてしまうことは、形は違えど暴力と言えるだろう。

読書会では、このような意見があった。

先方から「よくまとめてくれて嬉しいです」って言われることがあるんです。でも、それって「あなたこういう人じゃないですか」って押しつけになっている危険性があるとも思うんですよね。

話し手が記事の印象に引っ張られて、自己を作り上げてしまう。よくよく考えると、怖いことだ。

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ざっくりとではあるが、インタビュー記事を書くことで暴力が生まれることを見てきた。インタビューが抱える危険性、暴力性を感じてもらえたら嬉しい。

そんな暴力性を抱えながら、それでも書き残すことは素晴らしい――

と、話を展開できれば格好良いのだが、僕はまだその境地には達していない。正直に言おう。いまは書くのが怖くなっている。

もちろん話を聞くのは楽しいし、書くことも楽しい。けれど、頭の片隅から「これは暴力に繋がっているんじゃないか」と囁く声がする。

僕はまだ、この声との折り合いの付け方が分からない。暴力性におびえて、筆が止まってしまうようになった。なぜライターをやっているのか、と自問自答することも多くなった。

とはいえ、ここで書くのをやめたら、それで終わってしまうのだろう。それは嫌だと思う自分もいる。

インタビューとは暴力だ。それでも書く理由を、僕はまだ見つけられていない。

けれど、それは書くことをやめる理由にはならない。

書くことが抱える暴力性。それを自覚しながらも、書くことから逃げない。そんなライターになりたい。

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