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妄想爺のとんでも史観 (32) 蘇我氏と聖徳太子

妄想爺のとんでも史観 (32)

 蘇我氏と聖徳太子

 聖徳太子と言えば数々の逸話を残し、昔の一万円札や5千円札の肖像にもなったあの有名なお方です。
 十七条憲法、冠位十二階、日出る国の天子、、、一度に数人の話を聞いた、、、厩戸皇子、上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)とも呼ばれていたそうです
 以前書いた崇仏論争での物部守屋討伐軍へ少年時代に参加し、白膠の木を切って四天王の像をつくり祈願し、物部氏を滅ぼした。とも言われています。
 聖徳太子の子に山背大兄王が居て、舒明天皇の後継者争いで蘇我入鹿に討たれた事になっています。
 しかし、山背大兄王と一緒に自害したとされるその一家や取り巻きたちの墓所や供養する寺が、何処にも無いそうです。
 法輪寺(斑鳩町)は、父聖徳太子の病気平癒を願い、山背大兄王が建立したと伝えられていますが、そこで供養されているのでしょうか?
 近年では実在しなかった説が優位ですね。
なんせ記紀はファンタジーですから。自己正当化へのシナリオですから。

 飛鳥時代までは、今まで人々の暮らしを豊かに安全にしていった人が、リーダーでした。
 リーダーが、権威も権力も富も集めていたわけでは無いと思います。
 権威は神に任せ、依り代としての巫女に語って貰い、権力は分散させ、独走を許さず、持ち回りで負担していたと思います。譲り合いなのか押し付け合いなのかは、、、、分かりませんが。
 荒魂あらみたま を担う一族は、後継者や戦力不足に陥ります。その解決の為に、和魂を庇護し、幸魂を育み、希魂を整えていきます。富の蓄積は緊急事態用の備蓄です。
 誰だって荒魂のリーダーなどしたくないのです。穏やかな日常が良いに決まっています。
甲冑を自ら纏い、泥中を寝床にし、落ち着く暇も無し、、、そんなんしたくねえし、、、、
 肩書下さいと大陸の大国へ行ったのは、【俺たちの所にちょっかい出してるのって、あんたらの差し金じゃね~のぉ~?】って言う牽制だったりして、、、

 半島南部にあったとされる任那、伽耶、加羅は、この国で言う所の越、出雲、対馬と同じ人の集まり、国。
 そこは裕福で幸せな国、貧しい国から見れば羨ましい限りなのです。それらの国に危機が迫った時、助けてくださいと頼まれれば断れません。同じ仲間ですもん。戦いました。それでも、任那、伽耶、加羅の国々は盗られてしまいました。隣の百済や新羅にです。
 この頃の百済や新羅は、以前のそれでは無くなってしまっていたと思うのです。
 北部の高句麗や大陸からの侵略者が、手を変え品を変え侵入し続けていたのですから、男は入れ替わっています。女は侵略者を受け入れないと生き残れません。
 そうやって、名前が変わらずとも国の有様は変わってしまっています。

 戦いの場において地上での白兵戦、最前線にはどんな兵隊が配備されるでしょうか?
 殺戮、強奪、乱暴狼藉、一切の感情を失くしたかの様な囚人や乱暴者が、そこに割り当てられます。
 そういう者が生き残るのです。古代でも近代でも同じです。
 本隊や後方部隊は、作戦も細かい事は指示しません。双方が全滅してもその後、ゆっくりと入っていけばいいのです。
 片づけ役は、生き残った住民にさせます。労働力不足は本国とか侵略済み地域から連れてきます。

 百済や新羅はもちろん任那、伽耶、加羅からいち早く非難した人はどうしたのでしょう。
 この国へ来ました。各地に散らばって住み始めます。
 その中に元各王家のリーダーも居ます。過去の侵略や混乱を生き延びた経験や知恵、優秀な側近を持っています。
 大陸の大国の統治方法も身近に感じています。もしくは学んでいます。
 ありとあらゆる言語に通じる人材も抱えています。
 そうです。蘇我氏や中大兄皇子、中臣鎌足、秦氏などだと思います。
 蘇我氏は新羅の国、中大兄皇子は任那、中臣鎌足は百済からの引き揚げ者、もしくは応援を得る為の人質だと思うのです。
 大自然を相手に苦労して穏やかな、そして豊かな国を創っていっていたこの国の和やかな人たちには、刺激が強かったのでしょう。
 海千山千の策士が、お人好しの子供の様なこの国を掌握するのにそう時間は掛かりませんでした。
 記紀に記載されている戦闘や侵略、騙し討ちは、おそらくこの頃の出来事を、昔に遡って神話としたような気がするのです。

 作家の関祐二さんは「聖徳太子は蘇我入鹿である。」と言う著書を出されています。
 聖徳太子は、新羅からの引き揚げ王家の蘇我氏一族、そのものだっと私は思っています。
 何代にも渡る在地の豪族との融和政策、産業振興や緊急時用貯蔵施設(屯倉(みやけ))、行政改革や司法改革などの仕組み造りの功績を称えようと、聖徳太子は考え出されたのだと思います。
 しかも、イザナギイザナミの本家本元の直系神族と言う、お墨付きですから。

 その蘇我氏を面白く思わず、【てめえも侵略したじゃねえかっ!、見捨てたじゃねえかっ!】と思っていたのは、中大兄皇子と百済王子の余豊璋、後の中臣鎌足でした。
 ヤマトの飛鳥の地でテロリズムを繰り返します。蘇我入鹿暗殺もその一つ。蘇我倉山田 石川麻呂は自殺と言われていますが、どうでしょう。
 香山の西から石上山まで渠を掘らせ、舟二百隻で石上山の石を運び、宮の東の山に積み重ねて垣を作ったとされる『狂心渠』たぶれこころのみぞは、テロリストの城塞と、物資や人員輸送用の運河建築でした。
 二人して半島へ派兵し、惨敗して帰ってきています。物部氏の女帝、皇極天皇、重祚して斉明天皇を人質にして戦力を確保しようとしましたが、本人たちに人望が無い為、思惑通りにはなりませんでした。(この頃はまだ皇室とか天皇とかではなく、物部氏の最高位女性を人質として。)
 この二人とその一族は、琵琶湖のほとりに暫く隠遁生活をします。
 しかし、名を捨て実を取る計画を着々と進めていきます。
 その主体は、藤原不比等です。余豊璋、中臣(藤原)鎌足の子息です。
 我が身をこれまでの物部氏や蘇我氏同様な一族にすべく、人の作った仕組み造りの実行をコーディネートしていきます。
 それらの仕組みが上手くいき始めた時に、立案者を僻地へ一族ごと、飛ばしていきます。その為に、権威を利用しようと思い立ちます。(後に豪族らの意向に沿うフリをしますが。)
 中大兄皇子と藤原鎌足が同じような事をしようとしていましたが、頓挫しています。大海人皇子らが戦いを仕掛け潰しています。
 藤原不比等は生き延びています。何故でしょう?
 壬申の乱の黒幕は、誰だったのでしょう。藤原不比等しかいません。
 不平不満分子の一掃計画。思い通りに動かせる権威の創出。既得権益にしがみつく古来からの在地豪族の排除。自身の計画を正当化する公式文書の作成。

 この国からの甘い汁を、1300年以上も吸える仕組みを作った藤原一族。この国で唯一貴族と呼べる一族。皇室の方々や天皇の前でも自分勝手な振舞いの出来る一族。
 その一族に対抗できる唯一の存在を、聖徳太子としたのです。豪族達が。
 でも、藤原一族に実害を与えることは出来ませんでした。1300年の間中。

ではまた、お会いしましょう。
ごきげんよう。
やまとやじろべえでした。

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