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妄想爺のとんでも史観 (15) 鉄

 鉄

 ヤマトの地で前方後円墳を作りながら、全国各地へ技術者集団を派遣していた物部氏。
 その期間は約300年の様です。3世紀から6世紀ごろ。

 その間に、九州邪馬台国征伐、半島遠征、出雲の国譲り、天孫降臨(一族の逃避行)、神武東征(鎮静化の為の呼び寄せ)があり、既得権益と流通権益争い、食い違いと疑心暗鬼、自然災害との戦いに人との争い。
 でもね、一部の地域のイザコザが他の地域まで必ず波及するものでしょうか?目の前の人と前日までは仲良くしてて、あそこでは喧嘩しているそうだから俺たちも喧嘩しようか?ってなりますか?、、、、なる人はなるでしょうけど。

 この国と同じ文化経済圏だった半島南部から、大陸から押し出されるように難民や里帰りの波が押し寄せてきたのではと思っています。
 と同時に、ある交易品が入手できなくなったと思うのです。

 鉄。

 この国から、木を炭の状態にして半島へ持っていき、鉄の半製品、製品にして持ち帰る。そんな交易だった気がします。根拠はありません。
 半島には鉄鉱石の鉱脈があったと聞きました。
 この国は、高温多湿で木が豊富にあります。運ぶのには、軽くするには炭が一番です。濡れても乾けば使えます。
 そこへ炭を交易品にしていたのが、出雲や越の国。かな?、、、巨木の産地でしたから。(詳しくは#埋没林を検索)
 半島は鉄生産や生活で、”木”が枯渇し始めていた様です。
 でも、鉄鉱石が取れるし、採掘場から鉄生産現場が近いほど効率が良く、半製品や製品で付加価値が高まります。
 この頃の鉄の主要な用途は、農業用、木材加工用、生活の道具です。装飾品や戦闘用には向きません。錆びます。
 木や石を使った道具は短命で、鉄を木の先に組み合わせた道具は非常に長命で便利です。濡らして石で研げば切れ味は復活します。
 その鉄が手に入らなくなるかもしれない。焦りますよね。
 ふと思ったのが、、、邪馬台国の記事。
 卑弥呼が魏の国へ朝貢しお墨付きを貰ったのは、半島での鉄購入の権益だったのかもしれません。一節には、邪馬台国の卑弥呼は、半島北部の扶余族だと言われています。
 出雲や越の国、ヤマトは積極的に応援していたのかもしれません。
 九州邪馬台国が独り占めしようにも、鉄の加工技術は出雲や越の国の方が上だったと思います。燃料も持ってますしね。九州も森林資源が枯渇し始めています。
 近江や尾張、東海、関東東北へも鉄加工品を融通しないと、、、、約束もあるしね、交易続けないとね、公共工事推進もしないといけないしね。

 半島南部への北側からの侵攻が活発になってきた頃、九州の前線基地内での意見の食い違いが悲劇を招いたと妄想しました。
 仲哀天皇が亡くなります。ヤマトタケルの子。でもその死は秘匿されたそうです。でもいずれはバレます。
 ヤマト物部氏が、「裏切ったな!」と疑り、怒ったのでは無いでしょうか。
 出雲と越の国の半島への積極的支援と、ヤマト物部の国内開発か、どっちが優先事項か、、、の様な、、、
 半島へ支援しに行くと言っても、人員調達、武器補給、食料調達、相手の出方次第の戦術、戦法の立案。
 財政的にも人材も食料供給も、ヤマト物部が中心に運営していたと思うのです。
 
 大分県の日田市に古墳が幾つかあります。そこから物部系の土器が沢山出ているそうです。この日田市、西の山を下れば筑紫野国の高良山から玄関灘までを一望できる位置にあります。
 また奈良ヤマト、吉備の国を経由して伊予の国から渡ったところから山あいに入った、輸送経路の終着地の様なところでもあります。
 瀬戸内海を刳り船で航海する事は非常に危険で、大型構造船の登場を待たないと流通経路として成り立たないとの考察も有りますが、吉備から四国の海岸線経由で人の移動が出来れば、集団での移住前提での物部直轄地も可能だなと思いました。筑紫は既に先住の集団がおり、物部系の人達が入るスキが無かったのかもしれません。

 そう言った中での、先遣部隊の物部系リーダーの死去。しかも内紛。
 きな臭くなってきました。

ではまた、お会いしましょう。
ごきげんよう。
やまとやじろべえでした。

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