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広島協奏曲 VOL.4 振り子 (1) 振り子

振り子

薄汚れた網戸が ずっと目の奥にはまってて 青い空が見たくて 誰かに開けて欲しかった。 「振り子」 by URU

 私は美人ではありません。
 身長は160センチも無く、体重は秘密ですが、60キロプラスアルファです。
 大学を出させてもらいましたが、活かせる資格は普通車免許くらいです。
 そんな私は今、非常に幸せです。7人と2頭の大家族の中で暮らしています。
 でもほんの10年前は、天涯孤独のアラサー女子だったのです。
 その10年前の一番可愛い時代(自称)は、恋愛に縁の無い大学生でした。
 ちびでデブでブスな外見ですから、半ば諦めていました。
 でも、こんな私でも、今の幸せを手にする事が出来たのは、巡り合わせですかね。ほら、人間万事塞翁が馬って言うじゃないですか。
 生きていれば色々ありますが、悲観しないで行けばどうにかなるもんです。
 そんな私の半生を聞いて貰えますか?、、、壮絶な物ではありません。平凡な内容です。
 それでもよろしければ、お話しします。では、お付き合いください。

投稿 1 小学生

 私は、広島県の山奥で、果樹園を営む青木重信、春子の一人娘として生まれました。雪子と言います。
 県北の都市部から更に中国山地の奥へと入り、戦後開拓団として入植した祖父が拓いた 山間やまあいに実家があります。今も住んでいます。
 果樹園と言っても、今は梅と栗の木が実家の周りにあるくらいです。祖父の代には林檎や柿、梨など育てていましたが、父親の代に梅と栗だけの栽培としました。

 地元の小学校に通いました。卒業時は学年10名でした。
 入学時には、20人くらいいましたが、年々転校で減って行きました。一家で都会へと引っ越したのです。
 その時は、私も都会へ引っ越ししたいと思いました。

 一度だけ、都会から女の子の転校生がやって来た事があります。4年生になったばかりの頃です。
 その子は、垢抜けていませんでした。昔からこの町にいる様な雰囲気でした。
 大人しく、話す声もか細く、大きな声で笑ったりしません。
 私も含めクラスのみんなは、どう近寄って良いのか分かりませんでした。知らない人とでも話せる子なんてこのクラスには居なかったと思います。
 それでもその当時女子はクラスで7人いて、休憩時間に話しかけたり、給食当番を一緒にしたり、体育の時の着替えや。音楽の時間に別の教室へ移動するときに、声はかけていました。
 下校は集団下校です。その子は学校の近くの町営住宅に住んでいました。同じ住宅に帰る他の学年の子達と帰ります。
 
 1学期が終わり夏休み明け、2学期の始業式の後にその子がまた転校したと担任の先生から話がありました。
 始業式に出ていなかったので休みかなと思っていたら、クラスの中にはまた都会へ帰ったと知ってる子もいました。
 担任の先生から転校した理由を聞きました。
 「K子ちゃんはとても寂しかったそうです。友達が出来ないといつもお家で泣いていたそうです。
  みんなが声掛けをしてくれていたのは、先生よく知っています。見ていました。
  もっと親身になって遊んだり一緒に勉強すれば良かったのかもしれません。
  今度また転校生が来たら、親身になって接してあげましょう。」

 なんか変だな。もっと何かすれば良かったのかな。何が足りなかったのかな。
 どうすれば、知らない人と仲良くなれるのかな。

と、気持ちでもやもやしました。クラスの女子とは、
 「何か悪い事したんじゃろうか、うちら。」
 「どうせいゆうんよ、もお~。」
 「今度来たら、ちゅうても誰も来んよねぇ、、、こぎゃあな田舎。」
 言われた事を気にしたり、怒ってみたり、笑ってみたりしましたが、直ぐに忘れてしまいました。

 男子の中に一人、てんかんの子がいました。
 授業中、突然椅子から転げ落ち、白目を剥いて口をへの字に曲げて両手の拳を胸の前でブルブルさせていました。
 一年に一回くらいなっていました。高学年になればみんな慣れたもので、直ぐに頭の下へ椅子用の座布団を敷き落ち着くまで待っていました。
 5分か10分すると元に戻ります。その子は薬も飲んでいたので、手洗い場まで女子が一人ついて行きます。
 5、6人女子がいれば「私、世話好きの甲斐甲斐しい女」とアピールする子が大抵一人はいます。
 私はいつも見守るだけの女子でした。

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