見出し画像

私と母の話

母の日が近いので母の話をしようと思う。

私の現在の母親は父親の再婚相手だ。私を産んでくれた母親は若くにしてこの世を後にしてしまった。
父親が再婚した当時、母親は私に優しくしてくれたのを覚えている。幼い私の記憶では。

そんな優しさは妹が産まれると消えていった。そして向けられるのは周りには聞こえない小声での「お前なんかいなきゃよかったのに」という言葉。

妹には話しかけることも、触ることも許されなかった。幼い私には5つ下の妹というのは興味があるものだった。しかし、母はそれを許さなかった。

妹が成長するにつれて、母親の私に対する当たりは強くなっていった。言葉を発するようになった妹、話したい私。それを遮るように「妹、喋らなくていい」という母の言葉。
恐らくまともに話すことなど妹が中学生になるまでなかったと思う。

地域の人達はそんな歪な関係を少なからず見ていた。同居する祖母が近所の人に「私ちゃんが前を歩いてて、お母さんと妹ちゃんは後ろからベビーカーで歩いてたよ」と言われることもあったそうだ。
同居する祖父母がいなければ私の心はもっともっとぐしゃぐしゃで歪んでいたかもしれない。

幼い記憶の中、登園する途中に友達と友達のお母さんに会った。話をして後ろを振り返るといるはずの母親と妹はいなかった。少しドキッとした。少し歩くと違う道から2人は歩いてきたのだ。そんな記憶が今でも頭に残っている。

私は成長して中学生になったある年。学校行事で家族からの手紙を貰うことがあった。周りの友達は何やら、「産まれてきてくれてありがとう」というような感動的な内容だったらしい。私の手紙は母親が書いた、普段の暮らしの中で不満な点が書き連ねられていた。とてもショックだった記憶がある。
そんな手紙を家に持ち帰り、祖母に見せたところ祖母もショックを受けていた。

私の心は少しづつ歪んでいく。それもそうだと今なら思う。
母親は妹にベッタリで私の話なんぞ聞いてくれなかった。なんなら、除け者だったから。
そんな母親に対する不満を私が父親に言ったところで、父親は母親に特に何も言わなかった。もしかすると言えなかったのかもしれない。
味方になってくれたのは祖父母だった。

現在、関係はそれなりにマシになった。それは、私が精神的に追い詰められてうつ病と診断が出たからである。私の心が疲れ果て病んでしまってから、ようやく話を聞いてくれるようになった。

幼い頃に欲しかったものは母親からの愛情だった。周りの「お母さんとお出かけしたんだー!」「一緒に服を選んだんだ!」という声が私には痛くて辛かった。

今では児童虐待が社会の中で認知されてきている。恐らく私の経験したことは心理的虐待に引っかかる可能性もあったかもしれない。

母親が憎いかと問われれば、憎い部分もある。嫌な思いをたくさん抱えずに生きてこれたかもしれないと、歪むことなく生きてこれたのかもしれないと。

幼い頃の傷ついた心をそっと抱きしめながら今日も私は息をして生きていく。

そんな私と母の話。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?