『妄想タンデマー』
サークル棟の喫煙所の横を通りかかった時、幸村くんの後ろ姿を見つけた。
「飲み会、ばっくれたの?」
「え? ああ、藤沢さんか」
彼が煙草に火をつける。既に紫煙にまみれていると感じたのは、私の気のせいだったらしい。
「今日は飲めないんだ。バイクがあるから」
「なるほど」
幸村くんがバイク通学をしていることは、サークル仲間なら誰でも知っている。放課後の予定によっては電車に切り替えることもあるけれど、本日は通常運転のようだ。
「藤沢さんも不参加?」
「二千円で飲み放題って、まともな食事にありつける気がしない」
「同感」
居酒屋のコース料理は好きじゃない、お酒よりもおいしいご飯が食べたい。と、私と幸村くんの持論は一致している。今の学生に総じてその気があるから不参加を咎められなかったのかもしれない。
彼が煙草を口元まで運んで、ふと手を止める。
「てか、あれ? 藤沢さん煙草苦手じゃなかったっけ?」
「まあうん。大学内の喫煙所は早急に撤去すべきだと思ってる」
「火をつける前に言ってくれ」
さっとそれを揉み消した彼が、私に向き直った。
「じゃあ晩飯でも行こうか」
「お、抜け駆けだな。何食べる?」
「ラーメン」
「……これだから男の子は」
しかしまあ、和食でも洋食でも中華でも、大学生がふらりと入れるのはファミレスレベルの店である。別にラーメン屋だっていいではないか。
苦笑しつつ了解を告げ、私たちは歩き出した。
「ていうか荷物は?」
「部室。どうせバイク取りに戻ってくるんだから、財布だけあればいいでしょ」
「これだから男の子は」
もはや持ちネタと化したこの言葉、繰り出す相手が幸村くんだけであることに彼は気付いているだろうか。
私は幸村新太に恋をしている。
やたら大量にもやしの乗った味噌ラーメンを啜りながら、私はぼそりと呟いた。
「好きです」
対して幸村くんが漫画のような噴き出し方をする。それがちょっと、嬉しい。
「それ、今ここで言うこと?」
彼が努めて冷静になろうとしていたので、こちらもなるべく表情を変えずに話すことを心掛ける。
「いつどこで言おうかずっと考えてたの」
「ラーメン食いながら告白することにしたの?」
「考えてるうちに思ったの。何で告白したいんだろうって」
「……どういうこと?」
「告白ってリスクとリターンがあるじゃない? リスクは当然、失敗して幸村くんとの関係がぎくしゃくしちゃうこと」
「うん」
「じゃあリターンは何だろう?」
「おい」
テンポよく突っ込まれた。自分と付き合うメリットが分からないと言われたらそうなるか。
「そりゃ付き合えたらデートとかしたいけどさ、今も一緒にご飯食べてるじゃん」
「そうだね」
「それに私たち、好きな小説とか音楽とか全然違うじゃん。感性が違う人と一緒に映画観たりライブ行ったりしたい?」
幸村くんが返答に詰まって、質問しなければよかったと小さな後悔を覚える。
私は普段、主に恋愛小説を読んでアイドルソングを聞いている。幸村くんはミステリーを読んでロックを聞いている。趣味が合わないことそれ自体は構わない。まるっきり違う方が逆にお互いを尊重できることもある。
ただ、歩み寄るとなると難しい。
例えばミステリーが原作の映画を二人で見た場合、人間ドラマが弱ければ私がつまらないし、ロジックがザルなら幸村くんが腹を立てるだろう。実写化にはそういうところがある。
「だったら友達のままでも十分かもしれない。時々ジェントル幸村がご飯を奢ってくれたりしたら、私はもう一人で勝手にときめいてお腹いっぱいよ?」
「お腹いっぱいなのはラーメン食ったからじゃなくて? ジェントル幸村って何だよ?」
「ああ、別に奢れって言ってるわけじゃなくて」
先程彼は二人分の食券をまとめて買ってくれた。もちろん返すつもりだが、こうしたシチュエーションで「あ、いいよ別に」の一言に私は何度かノックダウンさせられている。
「要するに、わざわざ友達という関係を一度清算して、彼氏彼女という関係に築き直してまで私が幸村くんとしたいことはあるのかって考えてみたの」
幸村くんはこちらを凝視し、より一層冷静さを保とうとしながら尋ねた。
「……それって、答えは一つなのでは?」
「これだから男の子は!」
確かに考えた。が、そういうことはあくまで彼氏彼女になった際に生じる選択の一つに過ぎず、付き合う目的にはなりそうになかったのだ。
「じゃあ何かあるわけ? 俺とわざわざ……そもそも『わざわざ』って何だよ?」
「それな」
幸村くんがくすりと笑い、私はわざわざ話をややこしくしたリターンを享受する。
「で、藤沢さんにとって俺と付き合うリターンは何だったの?」
「それ聞く?」
「へ?」
「だってその質問に答えたら、私が友達以上の関係を望んでるってことになるかもしれないんだよ。いいの?」
突然カウンターを食らった幸村くんが顔をしかめる。まさに狙い通りだった。
「藤沢さん、ずるいこと言うね」
「いつどこで言うかずっと考えてたからね」
「何もラーメン屋で言わなくても」
丼を空けた私は味噌ラーメンの代金を幸村くんに渡し、二人で店を出る。
「藤沢さんは、大学戻るの?」
「ううん。帰る」
「……もはや食い逃げだな」
「お金は払ったじゃん」
「そうだけど」
この状況でジェントル幸村に駅まで送ってもらう選択肢はさすがにない。交差点に差し掛かったところで私たちは別れたのだった。
大きな黒のオートバイが唸りを上げる。
私が大きいと感じるだけで、実際にそれが大型なのか中型なのかは知らない。メーカーも車種も排気量も興味のない私の目を引いたのは後部座席だった。
タンデムシートって奴である。
共に車体にまたがって、彼の背中にしがみつき、二人で風を感じる。そんな姿を夢に見る。
「それが紗織のリターン?」
「というか、恋人関係になったらやってみたいことね」
私がバイクに興味を持っているのなら、タンデムは免許もしくはバイクを所有していない人間が「乗せてもらっている」に過ぎない。友達同士のままできることだ。しかし、もし幸村くんが「乗って」とか言ってきたら――
「なんか、彼氏彼女って感じがしない?」
「いや全然」
弥生が首を傾げる。子供の頃からファンタジー一筋の彼女は、少女漫画や恋愛ドラマのヒロインが二人乗りする青春に出会わなかったのだろうか。
「しかしラーメン屋で告白するかね?」
「いいじゃん別に」
大体どこで告白すればいいのだ。遊園地の観覧車とか夜景の見えるレストランとか、そんなの既に相思相愛の人間と行くところではないか。
「付き合ってもないのに二人きりになれる場所なんかないんだから仕方ないでしょ」
「部室でいいじゃん」
「まさか。いつ誰が来るか怖くて切り出せないよ」
「昨日は飲み会で出払ってたよ」
そんなの当てにならない。現に私も幸村くんも欠席したではないか。
私と幸村くん、そしてこの春宮弥生は文藝サークルの同期だ。
小説はかなり振れ幅が広い。前述のように私は恋愛もの、幸村くんはミステリー、弥生はファンタジーをメインに読んでいるし、他にも純文学青年、歴史フリーク、SFマニアにミリオタとどこまで行っても交わらない。おかげで本の話では逆に盛り上がらないという、謎めいたサークルになっていた。
「まあシチュエーションはいいや。幸村くんの反応は?」
「今のところスルー」
「何それ?」
「予防線を張り巡らせたからね」
食い逃げ、というか言い逃げもした。大学に戻った幸村くんが飲み会上がりの弥生と鉢合わせた際に――ということはやはり部室での告白は危険ではないか――彼女は異変を嗅ぎつけたらしい。
「幸村くんってさ、ぱっと見の印象よりチャラいよね」
「え?」
「だって文藝サークルでミステリー読んでるもさっとした男の趣味が、バイクとロックだよ。後半だけ聞いたら金髪ピアスでも全然おかしくない」
むしろバイクとロックが趣味の男のイメージが金髪ピアスって、弥生の偏見が酷い。それにおそらく、彼の髪型がもさっとしているのはヘルメットのせいもある。
「紗織もだよ」
「あたし?」
「小中高勉強しかしてきませんでした、って感じの野暮ったい女が恋愛小説読んでイケメンにキャーキャー言ってる姿は謎だよね」
「きっと勉強し過ぎて拗らせちゃったんだよ」
「なるほど」
「納得しないで」
別に勉強ばかりしてきたわけじゃない。可愛くもないのに可愛い子ぶるのが嫌で「中途半端にボーイッシュ」な自覚はあるが、野暮ったいと切られるほど酷いとは思わなかった。
「弥生こそ見た目ギャルなのにファンタジーの世界の住人じゃん」
ミニスカートやショートパンツで躊躇なく足を晒せる弥生。それがどうして、ライトな異世界転生などは見向きもせずに海外ファンタジーばかり読み漁っているのだ。世間的には彼女のギャップの方がウケる気がする。
「私も可愛げが欲しいな」
「ときめきを糧に生きてる人間が何を言う」
「糧か、上手いこと言うね」
確かにときめきは私にとって必要不可欠なものだ。
「でも可愛げは、相手をときめかせるものでしょう? 圧倒的に不足してる気が――」
「幸村くんがときめきたいって言ったの?」
「……言ってない」
弥生は笑って、部室の掛け時計を見上げる。
「あたしはお二人さん、お似合いだと思うけどな。あとは幸村くん次第か」
「弥生がどう思っても幸村くん次第に違いはないんだよ」
「だね」
言いながら彼女は立ち上がり、トートバッグを肩に掛ける。
「あれ、次授業だっけ?」
「今日はバイト。時間が中途半端だったから」
「暇つぶしに他人の恋バナ聞いてたの?」
「文句ある?」
そう問われると、特にない。
「あとは幸村くんに相手してもらいなよ。どうせもうすぐ来る頃だから」
と言って彼女は部室を出ていった。
暇を持て余したのでオートバイの二人乗りについてケータイで少し調べてみる。
バイクに乗ることはそれだけでアウトドアに近い。ヘルメットに手袋、長袖長ズボンに風よけの上着までフル装備を用意した方がいいと初心者向けサイトに書いてあった。特に「彼女にハーフヘルメットを渡すような男は信用ならない」との記述は尊い。
乗車の際は両足でしかと車体にしがみつき、左右に曲がるにはその方向へ身体を傾ける必要があるらしい。急に不安になった。自分にそんな芸当できるだろうか。しかも「運転手の邪魔にならないよう荷物になりきるのがいい」なんて言われてしまっては恋人感なんて期待できそうにない。
そんなことも知らなかったのか。とライダーには言われてしまいそうだが、知る由もなかったと言うしかないのだった。
「藤沢さん?」
弥生が予言した通り――というか、時間割からだいたい予測可能なのだが――幸村くんが現れた。一瞬にして気まずそうな顔を作るのはやめて頂きたい。
「ハイサイ」
「出身どこだっけ?」
「生まれも育ちも東京」
私も緊張しているだけなので深く突っ込まないで頂きたい。
幸村くんは何とも言い難い表情のまま私の前に座った。こちらまで煙草の臭いが漂ってくる。
「俺も考えたんだけどさ」
「何を?」
「藤沢さんと付き合うリスクとリターン」
「……それ、部室でしてもいい話?」
「ラーメン屋よりましだろう」
テンポよく突っ込めただろうか。考えているうちに、早くも彼が話を進める。
「これだから男の子は、ってまた言われそうだけどさ。藤沢さんの言う通り、藤沢さんとは友達として友達してたからリターンは一つだと思うんだよね」
わざとなのか考え過ぎてこんがらがったのか、ややこしい言い回しにドキリとする。
「それって……」
「やっぱり短絡的かな?」
「むしろ私、ちゃんとそういう対象にいるの?」
幸村くんが苦笑する。
「そっち? って笑い飛ばしてあげたいところだけどさ、正直言って全く意識したことがない」
「残念」
「だから付き合ってみないことにはリターンになるか分からない」
「へ?」
彼がプイと視線を逸らす。そこで私は聞えよがしの溜め息を吐いてみた。
「これだから男の子は」
「……今のはわざとだよね?」
「だって期待してたでしょう」
ようやく場が少し和んで、私も笑うことができた。
「リスクの方だけどさ、これが思いつかないんだよね」
「ほう」
「だって昨日の話からして、藤沢さんが求めるお付き合いは友達の延長だろう? だとすれば『本当に俺たち付き合ってんの?』って突っ込みたくなることはあっても、彼氏彼女になったせいで今までの関係が壊れるリスクは考えにくいじゃん」
「そう来るか」
「違うの?」
「違わないけど」
違わないけど、幸村くんがそういう意味で関係を壊そうとする分には構わない。望むところだ。
と、私が言うのはリスクが大きいので却下。
「しいて言うなら俺が他の女の子と付き合えなくなることだけど、それをリスクと考えるのはあまりに失礼だよね。現時点で他に相手がいるわけでもないし」
「そうなら、そうだね」
彼はさらりと言ったが「他に相手がいない」の一言に、私は心の中でガッツポーズを繰り出した。
「というわけで、藤沢さんの考えるリターンを教えてください」
「……はい?」
「いや、聞くでしょ。俺はそれ聞いてもいいのかを考えるためにリスクとリターン考えてたんだから」
幸村くんは努めて真面目な顔をしていた。弥生の言う「もさっとした」印象に騙されなければ彼はなかなか格好いいのだ。
「私のリターンは多分、ときめきなんだよね」
「ときめき?」
「幸村くんが意識していないことはついさっき分かってしまったけどさ、それでも君は私をときめかせてくれたんだよ。一対一でも普通にご飯誘ってくれるし、時々さらっと奢ってくれるし、気付いた時にすぐ煙草も消してくれるし、まさにジェントル幸村」
「そんなことで?」
「もっと小さなことでも、いくらでもあるよ」
少女マンガ好きから恋愛小説フリークへとすくすく成長した私は、男が見せるささやかな優しさにコロリときてしまう。
「もし幸村くんとお付き合いできた場合、一緒にいる機会が増えるから必然的にときめくことも増えると思うんだ」
「だからデートはしたいけど、関係性は友達のままでも構わない」
さすが、一緒に理屈をこねくり回してくれるだけはある。
「もちろん幸村くんの言うリターンも分かるし、それが嫌なら告白はしなかったと思う。でも、私が幸村くんにそういうことを求めてるかって言うと……ちょっと違うんだよね」
ときめきを糧に生きている私は「幸村くんが私を求めてくれること」を勝手に夢見ているものの、具体的な要求はない。こちらが求めて得たものでは全然、ときめかないのだ。
タンデムもそうだ。
私は別にバイクに乗せてほしいわけではない。幸村くんが二人で乗りたいと言い出したらすごくときめくだろうな。と、妄想しているだけなのだ。その時になって怖がらなくて済むように、心と身体をほんの少し鍛えておけばいい。
「何が変わるのか。しいて言うなら、今まで勝手に一人で噛みしめていたときめきを、付き合ったら堂々と共有できるってことかな。格好いいなって思った時に素直に格好いいなって言うの、友達のままだとちょっと気持ち悪くない?」
「……それは、恋人同士でも気恥ずかしくない?」
「じゃあ幸村くんには黙っておいて、女子会で惚気ることにする」
「それもそれで」
苦笑する幸村くんの表情に、私はときめきを言葉にしたい衝動をグッと我慢する。
「以上」
「……え、以上?」
彼はやや呆れたように尋ねた。
「俺が言うのもなんだけど、リスクを超えるリターンあった?」
「分からない。結局のところ私は友達のままでも十分ときめいてたからね」
ジェントル相手の片想いは、それだけで最高に楽しいものだった。
「じゃあ何で告白したの?」
「幸村くんだって、リターンになるのか分からないまま私に答えを求めたじゃん。そういうとこ好きだよ」
「俺の話じゃなくて」
「だから告白のタイミングがご飯食べながらだったのかな。きちんと伝える時間は欲しいけど、食べたらさっと言い逃げできる。おかげで幸村くんは一晩きっちり悩んでくれた」
「めちゃくちゃ高度な要求してるじゃん」
「そうかな?」
勝手にときめいて勝手に恋をしていた私は、その想いを勝手に伝えたくなっていた。けれども、告白は「勝手に」するわけにはいかない。だからどこまでもリスクを減らす方法を考えていた。多分そういうことだと思う。
「それで、どうしようか?」
「何が?」
「今お互いのリスクとリターンを確認し合ったところだけど――」
付き合えるの?
そう聞こうとした瞬間、唇を塞がれた。キツイ煙草の臭いに頭がくらくらする。
「俺のリターン、まだ確認できてないんだけど」
「……これだから男の子は!」
そうだった。幸村くんは文藝サークルでミステリーを読み耽っているだけの男ではない。弥生が言うところの「金髪ピアスでもおかしくない」チャラ男なのだ。
「どうしよう。ときめいちゃったじゃない」
「藤沢さんってそういうとこあるよな」
そしてこちらもアイドルにキャーキャー言ってる恋愛小説フリークなのだ。ときめきを言葉にしてしまうのはもう致し方ない。
「じゃ、邪魔が入らないうちに出ますか」
幸村くんが言うので、二人で部室を後にする。一体どこに連れていく気だろうと妄想が止まらない。
彼の背中で風を感じる未来は、多分そう遠くない。
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