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『幻想と旅をする』後編

 太一の住んでいた部屋は小さなアパートの二階にある。ワンルーム簡易キッチン付き、お風呂とトイレは別々。
 あたしは鹿目がこの部屋の合鍵を持っていたことにちょっとした衝撃を覚えたのだが、彼の手回しの良さを考えると部屋に入る算段があっても不思議はない。ただ、どうやってそれを手に入れたのかという疑問は残るが。
「これで月六万とかぼったくりだよな」
「え?」
「ここは東京だって話」
 改めて部屋の様子を窺う。
 家具はシンプルなデスクとベッドのみ、あとは備え付けのクローゼット。それだけの部屋に生活感がまざまざと残されていた。
 自炊の形跡の代わりにカップ麺やコンビニ弁当のゴミがあるのは男の一人暮らしでは仕方のないことかもしれない。それなりに片付いているだけ上出来だ。洗濯物も溜まっていたが、脱ぎ散らかしていると言うほどでもないので単にまとめて洗う派だったのだろう。
「太一はここに住んでたんだね」
「萩原はここで死んだんだな」
 あたしの感慨まで否定する冷たい響きである。そして鹿目は、なんと室内を物色し始めた。
「ちょっとあんた、何してるの?」
「何て言うか、そうだな。萩原の名誉を守ってやろうかと」
「はあ?」
「母親と姉貴が本格的に片付けに来る前に、隠しておきたい物が男にはあるんだよ」
「……呆れた」
「それに、あいつが自分でそっちの処理をしていたんならここに女を連れ込んでいない傍証くらいにはなるかもしれないぜ。ほら」
 真面目な顔して彼が手にしていたのはその種のDVDである。
「馬鹿じゃないの」
 言いながら、ホッとしている自分が情けない。
 一緒になって太一のプライベートを暴く気は更々ないけれど、かといって鹿目を止める気にもなれず、あたしは近くにあったベッドに腰掛けて事の次第を見守ることにした。
 それが不覚であった。ここは、太一のベッドなのだ。
 気付けばあたしはその場に倒れ込んでいた。枕に顔を埋めて震えていた。頭がくらくらする。彼の匂いが思考を融かして、ただ一つの思いだけが込み上げる。
 ――会いたい。彼に会いたい。
「何してんの?」
 それなのに、あたしの隣にいるのはこの男なのだ。
「うるさい。ほっといて」
「お前な」
 鹿目は深い溜め息を吐き、それから一瞬の内にあたしの目の前に迫った。
「この間の続きをしようか」
「え……?」
「自分がどんだけ無防備な状態か分かってるか? 死んだ男のベッドで物欲しそうにしやがって」
 彼の重みがずしりとのしかかる。鹿目の言う通り、あたしはまるで無防備で無抵抗であった。
「やだ、ちょっと!」
「嫌ならのこのこついてくんなよ」
「何言って――」
 怖いくらい、優しいキスだった。
 逃れられないようにがっちり拘束しておきながらどうして唇だけがこんなにも優しくなれるのか。あまりの甘さに、思わず、力が抜け落ちる。
 ああ、あたしはこの男とホテルに行ってしまったんだ。
「大丈夫、お前は萩原を裏切ってない。だって奴はあの時既に死んでたんだから」
 そんなわけがない。あたしは太一を裏切ったのだ。だから罰が当たった。
「……お前、萩原のことは忘れろ」
「は? 何であんたにそんなこと言われなきゃならないの」
「あいつが死んだからだよ」
 そんなの、暴論だ。
「そもそもあいつはお前の王子様じゃない。あいつこそお前を裏切った。いいか、萩原はこのベッドで他の女とやってたんだ」
「嘘言わないで!」
「今し方お見せできる証拠を手に入れた」
 鹿目がこちらに突きつけたのは、女物のピアスだった。
「一応聞いてやるが、お前のじゃないだろう?」
「あ、あたしへのプレゼントかもしれない」
「片方だけ? 包装は? どう見ても落し物だろ」
「じゃあ、お姉さんの――」
「本気で言ってんのか?」
 太一のお姉さんがピアスを空けていないことを、あたしも鹿目も知っているのだ。
「……遠野さんの?」
「いいや、河北くんの証言に間違いはないだろう。二人が直接ここに押し掛けずに大学に相談した辺り、深い付き合いはなかったんだと思う」
 彼らは学部でもサークルでも同期で仲がいいという話だった。ではもう手掛かりがないではないか。
「実は俺、先月もここに来たんだよね」
「は? 何、どういうこと?」
「俺が東京の親友と会って何か問題あるか。お前こそ淋しいならさっさと会いに行けよ。電車で二、三時間の距離を宇宙の果てとでも思ってるんだから」
 彼の身体からふっと力が抜けて、鹿目は隣に転がった。
「と、お前に言えなかったことを俺は後悔している」
「へ?」
「前に来た時、何となく萩原に女がいるような気がして……どうしたものかと考えた結果、俺はこの部屋の合鍵を失敬した」
「ごめん、意味が分からない」
「本来お前が手にするはずだった鍵だ。東京を宇宙の果てだと勘違いしている女に発破をかけるなら、これくらいの手土産があってもいい。まあちょっとした出来心だな」
 図々しくてお節介な鹿目である。その是非はともかく、彼の行動原理は分かる気がする。
「すぐに渡してやれば良かった」
 やっと、彼の溜め息の意味が分かった。
 鹿目がきっかけを与えてくれたなら、生きている太一に会えていたかもしれない。自分が会いに行かなかっただけなのに、あたしまでやりきれなくなる。
「そしてあの夜だ。萩原と連絡が付かなくなったって、お前が珍しく俺に泣きついてきて」
「泣きついてはいないでしょ」
「突っ込むのそこかよ。とにかくそれ聞いて俺は、あーついに乗り換えたんだなって、思っちゃったわけ。だからわざわざ修羅場に向かわせるよりも俺が慰めてやろうかと――」
「どうしてそうなるわけ」
 彼の誘いに乗った自分を棚に上げ、責めるように言ってしまう。
「いや、でも、むしろ良かったよ。連絡が付かなかったのはあいつが死んでたからで、もし俺が送り出してたら、お前は東京行きの電車の中で萩原の訃報を知ることになったんだから」
 確かに残酷すぎるタイミングだが、結果論でしかない。
「それともう一つ、俺には怖くて仕方がない想像がある」
「何よ?」
「もし東京の彼女の手に合鍵が渡っていたとしたら、その人が救急車を呼んで萩原が助かった未来もあったんじゃないか」
「……」
 抑揚の消えた彼の声に、ゾッと、鳥肌が立った。
「少なくとも、一週間も放置されることはなかったよな」
「いいよ、そんなことまで考えなくて。あんたのせいじゃない」
 鹿目は力なく笑った。こんな表情、初めて見る。
「そう言ってくれるんなら俺も一つ教えてやる。あの晩、あいつの訃報がなくてもお前はきっとどこかで引き返してた。だからやっぱり、お前は萩原を裏切ってない」
 そんなふうに指摘されると、ホッとした思いともっと責めてほしいような感覚がごっちゃになって渦を巻く。鹿目も同じ気持ちなのだろうか。
「まあ、俺の理性が持たずにやっちまった可能性もあるけどな。ホテルまでのこのこついて来た時点で自業自得だ」
 だとしても、この男はなかなか尻尾を見せない。
「結局あんたは、東京まで何しに来たの?」
 あたしは太一のことを知りたくてここまで来た。実際、彼の東京生活の片鱗を知ることができた。こちらに恋人がいたことはショックだけれど、遠距離の淋しさは身に染みて分かっているので彼だけを責めることはできない。
「俺の目的はただ一つ、萩原から奈々子を解放してやることだ」
 ポカンと鹿目の顔を見つめてしまってから、あたしは今の台詞の何がおかしかったのかを考える。
「な、なな……ななこ?」
「ナは二つだ」
 そんなことは分かっている。
「俺は最初からお前のことを『奈々子』と認識してたぞ」
「は、え? 最初から」
 そしてはたと気付く。
「あんた、ずっとあたしのことお前呼ばわりしてたわね」
「お前も割と他人のこと言えないけどな。久しく名前を呼ばれた記憶がない」
 それはそうだったかもしれないが。あたしにとって鹿目は鹿目でしかないし、鹿目にとってあたしが奈々子なのは意外というか、驚天動地のレベルだった。
「萩原は死んでしまった。それはもうどうしようもない。だから俺が、お前に残された奴の幻想をぶっ壊してやる」
「何であんたが、そんな――」
「その質問、何度目だ? 俺は俺のやりたいようにやってるだけ」
 鹿目はおもむろに身体を起こして、再びこちらに詰め寄ってきた。どうして解放されている間に逃げなかったのか。自らの失態を痛感する。
「だいたいのことは萩原から聞いてたからな。お前のきれいな思い出なんざ、簡単に台無しにしてやれる」
 しかしそれ以上、彼は何もしてこなかった。
「それが嫌ならさっさと他の男に新しい幻想を見せてもらえ」
「……え?」
「だから、お前が萩原のことを忘れてくれれば俺だって汚れ役を引き受けなくて済むんだよ。言っとくけど、嫌がる女を無理やり犯すような趣味俺にはないからな」
 この男は、馬鹿なのか。
「あんたがその新しい幻想って奴を、見せてくれる発想はなかったの?」
「は?」
 完全にきょとんとした表情で鹿目が言う。
「……だってお前、俺のこと嫌いじゃん」
 そうだった。これはこういう男なのだ。仕方がないのでもう一度だけ聞いてみる。
「鹿目は、あたしに幻想を見せてはくれないの?」
 ようやく理解した彼はぎこちない笑みを浮かべて答えた。
「お望みとあれば」
 本音を言えば、あたしが太一以外の相手を好きになるなんてあり得ないと思っている。だからこの男の言う通り、いっそめちゃくちゃに壊してもらいたい気持ちもあれば、殺してほしいような気もする。けれども、彼にそんなことをさせるのは……とも、思ってしまったのだ。
 だったらこの手を掴んでみるのもいいのかもしれない。
 床に放置された鞄から、白いカーネーションが覗けている。あの子にも――遠野千佳さんにも新たな幻想を与えてくれる人は現れるだろうか。
 そうだったらいい。と、頭の片隅で思った。

                              〈了〉

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