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【随筆】『マジックアワー』

私は日々ショックを受けている。
ということに気付いて、またショックを受けた。

どういうショックか。
ショックっていうのは、自分が知らなかったことを知った時に受けるものだから、まず過去の話をしなければならない。

子どもの頃から大事にしている感覚がある。
当時、私の部屋から都庁が見えた。
90年代東京の代表的高層建築で、特に第一本庁舎の、夕陽を浴びて反射するガラスのきらめきの、現代的でありながらどこか侘しさが漂っていて、でもやっぱり貧しい感じは全然なくて、まさに都会に佇立する孤独を美化した姿。

学校から帰ってきて、私は窓を開ける。15時くらいの埃っぽい光のもやから、空がオレンジに変わって、すみれ色や赤や紫から紺色に、そして夜の帳が下りる頃には庁舎の輪郭は見えなくなっているけど、高層の赤いランプがしみったれた暗さを最小限の力ではねのけている。
都庁は動いていないのに、私はまるで一度に動く大きな機械に一つでも不具合がないか必死で見張るのように、その光の変化を飽くことなく追っていた。そして、当たり前だけど、そこに不具合はないのだ。

モネがノートルダム大聖堂をどう観ていたかは想像するしかないけれど、私も都庁庁舎を映し出す光を、ずっと定点で眺めながら、部屋の中で空想に耽っているのが楽しかった。

夕方というものはこうあってほしい。夕方は刻々と変わるその変化が美しく、そして必ず夜になってしまうけれど、夜に至るまでの全ての色の、光の変化が私の感性の琴線に触れる。その光を捉えている私がまるで弦楽器になったような気がするのだ。触れられ弾かれ、あの風情の音色が出るような。

その時間は様々な絵を描いたり、文章を書いたり、インスピレーションを得る時間というか、私を芸術家にさせてくれる時間だったのだ。そしてその時間は母から夕食に呼ばれるまでのわずかな間だった。

今はその窓がある家から引っ越してしまったけど、大人になっても、夕方になるとその空気に浸ることを誰にも邪魔されたくなくて、つまり現実に引き戻されたくなくて、一人暮らしをしてからは、夕食を食べずに動けなくなることもよくある。

先日、そんな夕陽が写ったポストカードがあったらいいなと思って、ネット検索をした。ポストカードが欲しかったから、最初はショッピングアプリ内の「文房具」カテゴリで検索していたのだが、ふとした画面遷移で、Amazonに飛ばされた。

夕焼けを扱った写真集がズラリと出てきた。私はあくまで「記憶を想起させてくれるようなポストカード」が欲しかったのであり、ハワイとかモンサンミッシェルの夕焼けに用はなかったのだが、そこに書かれている文言に、思考を止められた。

「マジックアワー」

初めて見る言葉だった。
もともとは撮影用語らしい。
なんならwikipediaに書いてある。
SNSを見ると、他の人も「マジックアワー」にこの世ならぬ魅力を感じているようだ。
そりゃそうだよな。そうだな。

そう、「私が綺麗だなと思ってたあの時間ってマジックアワーって言うんだ!」ということにショックを受けているのだ。

つまり、あれって特別でもなんでもないのだ。

あの全ての雰囲気や感動がこの一言に集約されて、ましてや検索可能になっている。タグ付けも出来る。私の手元にカメラがあれば、撮影してkindle本にして写真集として販売できる。(マジックのように)綺麗に撮影できることから来てる言葉だから。
そう、とても陳腐なものになってしまったような気がして、ショックを受けているのだ。

私にとって特別なのは夕方だったけど、そんなものは他の人も体験していることで、そしてその中で私が空想したり絵を描いたり何かを生み出すことにたまに価値があればいいのかもしれないけど、まあそんなものは別に生まれてないわけで……
てか私のマジックアワーの描写も陳腐すぎて悲しくなる。紺って。ちゃんと「ブルーアワー」や「天文薄明」と定義されている。天文薄明の方がよっぽど文学的だ。天文薄明という言葉は、HONDAのホームページで分かりやすく解説されていた。いつだって科学の方がロマンチックだ。

こういうとき、子どもの時のあの感動はなんだったのだろうと思う。
心の底からの陶酔があった。昔の話だし1人だったから誰にもシェアできないし、むしろシェアしようと思ったら「マジックアワーの時間って最高だよね」とかいう、もう本当にしょうもないというか、デートでそのあとのセックスのことしか考えてない奴の言葉みたいで、本当に嫌だ。風情も情緒もない。

あれは、感動のための感動だろうなと思う。もしくは自分が芸術家だと錯覚するための。
マジックアワーの金色や移ろいを見て、万人が芸術家になろうとしたわけじゃないから、それでいいのかもしれないし、何より、「あれってマジックアワーって言葉で片付けられるんだ、ショック……」というところまで含めて、私自身の感性なのだ。
むしろ、子どもの時にマジックアワーという言葉を知らなくてよかったと思おう……それにしても、他者との直接のコミュニケーション上では、使いたくない言葉だ。

そして
私は新しい言葉に出会うたびに、この類のショックを受けているのだ。
推しとか。熊文学とか。『オトナブルー』の歌詞とか。
そんなのにいちいち反応してたら疲れちゃうよと思われたとしても、実際驚いてしまうのだから仕方がない。そのふてぶてしい力強さと、それに振り回された虚しさに、またショックを受ける。勝手に痙攣が起きて、それにヘトヘトになっているようなものだ。

まったく、言葉の原義はともあれ、コピーライティングなどには、いちいちビビらないでほしい。
落ち着いて、本当に求めてる言葉と向き合ってれば、肝も座ってくるだろうか。

あなたの感じたことって何物にも代えがたいよね、ってことを一人ひとりに伝えたい。感情をおろそかにしたくない。って気持ちでnote書いてます。感性ひろげよう。