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一生一度の読書体験とジレンマとネタばらし


自分の周りの景色がぐわんと回って真っ白になり、頭の中がしびれるような読書体験をしたことがある。


今年の4月初旬、私は上記のような書き出しで「一生一度の読書体験」という題の、ある小説を読んだ時の体験を書いた。
下に詳しく書くけれど、ちょっと肩に力が入ってつまらないこだわりもあり、なんだか欲求不満の溜まる文章だった。

半年たってずいぶん肩の力が抜け、続きを書いてつまらないこだわりとジレンマを解消したくなった。
まず、4月の記事全文をどうぞ。

自分の周りの景色がぐわんと回って真っ白になり、頭の中がしびれるような読書体験をしたことがある。

と言っても、内容に感動したとか、人生が一変したとか、そういう話では全くない。

もうずいぶん前のことだ。ある短編小説を、何の予備知識もなく、「全く知らないお話」として読んでいたのだ。古代中国が舞台の、60ページにも満たない歴史小説。貧しさと家族の愛情の乏しさに苦しむ小さな少年が大人になり、死ぬまでを淡々と描く小品だ。

読み進んでも歴史の靄の向こう、神話と紙一重の素朴な世界が広がり、国という概念すらまだ無く、人々は部族単位で動く。少年の一生も、書く気ならドラマチックに脚色できる出来事がたくさんあるのだが、淡々と事実が綴られ、主人公は大人になり年老いて死ぬ。

私はそこまで古い時代の小説を読んだことはなかったし、単純素朴な古代の世界に魅せられていた。それだけでも充分満足だった、最後の一行を読むまで。

最後のたった一行によって、私はその主人公が「私の知っている人物」であることを知る。その、一瞬の認識の変容が、私にしびれるような驚きをもたらしたのだ。

全く知らない人物として一生を読んだその人が、私の知識の中にある人物と合致したとき、もやもやと漂っていた小説の内容と、私の周りの柔らかい景色さえもが、混ざり合ってぐわんと回った後急激に知識として固まり、非常に大きな固い金属の鍵となって世界の中心の鍵穴にカチッと音を立ててはまった感じ。周囲の景色さえ新しい現実に生まれ変わったかのようだった。

「私が読んできたのは、あの人物の一生だったのか」と、次々に小説の様々な場面が私の知識と音を立てて合致していく。しばらくその驚きに頭の中が白いまま、体の芯からじーんとしびれるような感覚だったのだ。

それは、一生に一度、何の予備知識もないまま最初にその小説を読んだ時にだけもたらされるものだ。

その、痺れる程の驚きの感覚は今も鮮明に残っている。

小説の内容自体が感動的だとか、人生の指針になるとかでは全くない。しかし、その読書自体が、生涯忘れがたい、強い衝撃をもたらす体験だった。

今でもその小説は好きだ。本当に古い、文字さえ持たない古代中国の雰囲気を味わえるから。そして、もう二度と味わえないけれど、あの鮮烈な感覚を呼び起こしてくれるから。

その作品の名前も、作者も、主人公の名前も書かない。
予断は不要。私の読んだ作品であなたが同じ体験をするとは限らないし、それはある日、突然、何の前触れもなくやってくるものだから。

ここまでが4月の記事だ。

終わり方がスカしてカッコつけている、と自分でも思わなくもないが、読んでくれた方にできればいつか私と同じ体験を味わってほしい、と思った末の収め方だ。

作品名どころか作者すら、見当がついてしまえばもう驚きはやってこない。書きたいけれど書けない。ああジレンマ。

そう思っていたが、考えればつまらないこだわりのように思えるし、冒頭で書いたようにもやもや感の残る終わり方だ。

だから今回続きを書くけれど、もう一度確認。

「古代中国」というキーワード以上の予備知識はやはり要らない!という方はここまでになさって下さいw。

もうええわ!というツッコミが聞こえてくる。
結論:結局誰かがこの文章を読んだとしても一素人の書いたもの。いずれこの記事のことなど全く忘れてある日突然その作品に出会い、驚いてから「そういえばそんなことを書いた記事もあった」と思い出してもらえる、そんな流れが最もありそうだと、肩の力が抜けてそう思う。

だから勿体ぶらず(もうずいぶん勿体ぶっただろうか?)さあ、書きます笑

宮城谷昌光 作 「布衣の人」 
『俠骨記』という短編集に収められている。

主人公の少年の名は俊(しゅん)。
盲目の父、継母と腹違いの弟の家族全員から冷酷な仕打ちを受ける俊は、それを「自分の孝行がいたらぬせいだ」と、普通とは違う受け止め方をする。
家族の誰一人働かぬ中、幼い俊は一人畑を這いずる。
不作で当然なのだが、そのことでまた家族は口汚く俊をののしる。
だが俊はその不作を「まだ努力がたりないと、天が父母の口をかりて、わたしを叱っているのではないか」と思う。

その独特の、謙虚さを通り越して神々しくさえある事象の受け止め方で俊は人格を形成し、人望を得、やがて都で帝にまで上り詰め死ぬ。(諸国という考えはまだないようだが、中華・都・帝というものは出てくる)

引用記事でも書いたように実に淡々と、大きな起伏もなく50ページ余りで俊の生涯が書き切られる。

唯一多少抒情的な掘り下げが見られるのは、俊の両親に憎まれる悲しみの記述だ。少年時代に数行。そして壮年になり高い身分を得て物心ともに父母に尽くしてもなお憎まれ、あまつさえ殺されそうになった時の胸の裡。だがそれも数行で、あとは繰り返される家族による殺害計画とそれに対処する俊が、また淡々と描かれる。

俊の生涯を通して、事あるごとにこの家族の理不尽な仕打ちと、それに対する俊の独自の受け止め方が描かれ続ける。
結局そのことが俊の稀有の人格を作り上げ身分を極めさせた、と、まとめろと言われればまとめるが、そんなことは私にとって深い意味はない。

とにかく淡々と、芒洋と、どこが山場だか分からないまま俊の生涯が描かれ俊は死んでいく。
そして最後の一行だ。

 俊はまた舜(しゅん)とも書かれる。

舜。

ここなのだ、私の時空がくにゅりと歪み、新しい認識の軸によって世界が新たに回り始めたのは。

俊は、舜だった。

頭が真っ白になり体が芯からじーんと痺れ、世界が新たになって我に返るまで、だいぶ間があった。
本を胸に当て、たぶん私は放心していた。

俊と舜。俊は舜!


舜:中国神話に登場する君主。五帝の一人(Wikipediaより)

俊は舜。こうやって書いてしまうとどこが大した驚愕かと思われるだろう。作品を振り返れば舜を示唆するヒントは、それこそいたるところにあった。

しかし「俊」というありきたりな字面は、どういう訳か全く「舜」を想起させなかった。「舜」という文字とそれが表すものが非常に特殊だからだろうか。

作者もこの一行を、この書き方で最後に置いたのは、まさに私が受けたような効果を狙ったのではないだろうか。

そして「俊」という見ず知らずの少年の素朴な物語だったものが、「舜」という、歴史の彼方に燦然と輝くビッグネームと重なった瞬間、それは全く違う意味を持って、ものすごく身近な物語として、もう一度ゆらりと立ち上がってくるのだ。

 俊はまた舜(しゅん)とも書かれる。

この一行が、私に「一生に一度、有るか無いかの強烈な読書体験」を、もたらした。

そのことを伝えたくて、こんな文章を半年かけて書いている。


附記
文学部出身で漢詩や史記といった漢文、そして古代中国の歴史が好きな私にとって、《帝舜:てい・しゅん》は非常に親しみのある名で、それ故に「舜か!」という驚きがもたらされたのだけれど、他の方にとって堯・舜・禹(ぎょう・しゅん・う)といった名は親しみのあるものだろうか。




この記事は、下の企画と#読書の秋2020に参加します。




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