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試される大地に生きるふたりのトップスター:大泉洋と礼真琴

※以前に途中まで書いて放置していた記事ですが、全国ツアーで北海道に上陸する記念に公開します。礼真琴率いる星組の全国ツアー、おめでとうございます!!※

水曜どうでしょうという長い番組で、筆者にとって最も感動的な場面をひとつあげるとすれば、「ベトナム」の冒頭、最後の旅に出ることを視聴者に語る大泉洋(実際は旅が終わって疲労困憊の最終夜に、ゴールのホーチミンのホテルでこれからこの旅を観る視聴者に向かって語りかけている)が、訥々とボヤく場面。「一生どうでしょうするとつい自分で言ってしまってたのでこの番組は終わらないが、一生というのはどうにも荷が重い」という話をしたのち、多分カメラの手前でニヤニヤしている藤村ディレクターに対してやや語気粗く付け加えた次の台詞である。

「言っておくけど、(何をするにも)カメラは回してくれよ?カメラ回ってないところで君達と旅する気なんて一切ないよ。回してくれれば……、何でもやるから

この「何でもやるから」と言う顔が、憮然とした、他にどう言いようもないという喜怒哀楽を超えた大変いい表情で、彼がこの時は水曜どうでしょうを本気で、一生やる覚悟があったのだと感じさせてグッとくる。決して友人として旅行する気は一切ないが、どうでしょうという枠が望むなら、これからも(どんな酷い旅でも)必ず出ると言う。「幸せの黄色いハンカチ」の武田鉄矢みたいというか、昭和の人生の約束という感じがして、切ない。

これのアンサーコメントという訳ではないのだが、次にもうひとつ筆者が好きなどうでしょう場面を挙げると、自然に上のコメントとつながってしまう。上述のベトナムの旅の1年半後、「ジャングルリベンジ」という企画で、アンコールワットをのんびり観光する……と大泉洋にのみ嘘をついて成田からシンガポールへ飛んだのち、実は過去の番組史上最も過酷だったマレーシア奥地での動物観察小屋を再度訪れるというもの。すっかり観光ツアーのつもりで、シンガポールの豪華ホテルでだらしなく(芸能人的に)寛いでいた大泉洋に、真の企画が明かされる。彼はひとしきりディレクターの首を絞めるなどして暴れたあとに呆然とし、

「藤村くんそういえば言ってたもんな。僕が東京でミュージックステーションに出た(※当時の彼には大仕事だった)あとにHTBに顔を出したら、ニヤニヤ笑ってさあ……『いやあ楽しみだなあ大泉君。ぼかあ、君に、何してやろうかなあ』って。あの時はもうこの企画決めてたんだろ?」
「(カメラに向かって)全道中(※全北海道の意)思ってたんだろ?大泉が調子に乗ってるって。『どうでしょうさん、そろそろあいつを懲らしめてやってください』って。……騙されたぞ」

「回してくれれば何でもやるから」→「何してやろうかなあ」→「騙されたぞ」。このPDCAならぬMNDサイクルが、「一生どうでしょうする」ということだったのだ、と筆者は思う。だから、この意味では近年のお手盛り企画はどうでしょうを「していない」と感じるが、それはそれでいいんだろう。人生の約束が綻びるところにも詩情はあるし、大泉洋はそういうイタリア映画っぽいのも似合う。


さてここで礼真琴さんの話をしたい。しない方がいいような気もするけど、書きかけたから……。若い頃から実力派で知られる彼女は、劇団入団2年目にして小池修一郎氏の潤色による『ロミオとジュリエット』の、仏オリジナル版含めてこれまで存在しない「愛の概念」という難役、つまり「イケコの中の愛」を表現するといういかにもドラマティックな難役に抜擢される。この最初期の成功を皮切りに、節目節目にまあまあ無理目な課題を出され、血の滲むような努力の結果「あの子、いつもできあがってるね~」という高値安定評価を勝ち取ってきた人だ(※ニワカによる後追い記述で恐縮ですが)。

その努力実って2019年に星組トップ就任、大劇場でのお披露目公演となるショー作品『Ray』では、サビの歌詞が「Ray(礼)」を12回言うだけという礼推しの歓待を受けている。12回のカウントごとに異なるキメ顔をする礼真琴が見もの。さて、そのショーの締めとなる〈黒燕尾〉、男役全員がクラシックな燕尾服で一糸乱れぬ群舞をするという宝塚のショーに必須の場面、しかも新トップスターの初の黒燕尾ともなれば、いわば米国における大統領就任演説のようなもの(多分)。新トップの個性を最大限に魅力的に印象づけてくれる曲や振付が、制作陣からの心尽くしとして捧げられる。歌があるときもないときもあるが、ここは礼真琴なのですごく歌う。そのあとすごく踊る。

曲はサラサーテのツィゴイネルワイゼン。歌い初めは「江戸を斬る」の西郷輝彦の主題歌(何を~今日は求めて生きた~ってやつ)のような堂々としつつシンプルなメロディ。哀感と決意を湛えながらオフビートで朗々と歌いあげる礼真琴の声が心地よい。

南に燦然と 輝く星を眺め
大きな夢を掴み あまたの星を抱こう
一番星となって 栄光の道をひたすら歩み続けよう

だが、最後のフレーズ「栄光の道をひたすら歩み続けよう」だけなんかおかしい。バイオリン独奏におけるツィゴイネルワイゼンの難所で髪振り乱して弾く葉加瀬太郎氏が浮かんでくるような、文句なくかっこいいけど劇的過ぎてよくわからないメロディになっている。栄↓↓光↑↑↓の道↓を↓ひ↓た↓す↓↑ら↑歩↑み↑↑続↑↑↑↑↓け↓↓↑よう~~~~~みたいな。200円で聴けるのでどこかで聴いてみてください。この編曲・作曲を手掛けた青木朝子氏が,、のちにスカステの音楽研究番組「MUSICA×MUSIK Collection#1」で、面白いコメントをしていた。

全体はロック風のアレンジですが、要所では原曲で特徴的なバイオリンソロを生かし、教会音楽のような荘厳さやクラシックさが残るように意識しました。
その結果、礼さんの歌唱部分はとても“器楽的”、つまり人が歌うにはかなり難しいメロディになりましたが、舞台では素敵に歌いこなしてくれていて、よかったです。

弦の代わりに人間でツィゴイネルワイゼンの難所をやってみたよ~っていう、チームびっくり人間案件だった。このとき礼さんが「一生音が取れないかと思いました……」と青木氏にボヤいたエピソードも紹介されたが、これも絶対音外さないマンならではのギャグ的に消化されてしまう。見切り発車すぎないだろうか。おめでたい大統領就任なのに、スピーチライターから試されている。

それから3年、感染症禍の艱難辛苦を乗り越えて、2022年の初夏から夏に公演した「グラン・カンタンテ!」。礼真琴の初コンサート『VERDAD!』に続き、作・演出を手掛けたのは藤井大介氏。近年の宝塚で人気のショーといえばまず藤井氏の作品があがるようなスターショー作家だ。祖母の代からの宝塚ファン、日芸を卒業したのち宝塚歌劇団に入団。女性に生まれたら絶対に宝塚に入っていたと公言する藤井氏、自分で作・演出した『VERDAD!』は全公演をフルで観客席で観劇し、自分で作ったものをまた観てる!と観客を沸かせた。その藤井氏、グラン・カンタンテの構想にあたり、宝塚の公式サイトでこう語っている。

歌い手・礼真琴の素晴らしさをお見せする狙いもありますので、音楽の手島先生、青木先生には、何でも歌いこなしてしまう彼女がさらに挑めるような、なるべく難しい曲にしてほしいとお願いしました(笑)

笑ってる!大劇場の舞台の出来がその喉にかかっているのに。よりよい表現のために難しくなるならわかる(青木先生の方)が、「次はまこっつぁんに何してやろうかなあ」「もっと難しくしてやってください」的なノリで音楽を発注するのは(藤井先生の方)どうだろう。歌い手の美点をストレートにお見せすればよいのでは、と言いたくなる。

しかし礼真琴は、トップ就任時に自分で作ったキャッチフレーズ、現在も延々と自身のグッズに印刷し続けているそれに倣い「限界を超えろ!」の姿勢でアンサーしてしまう。「何してやろうかなあ」→(限界を超えろ!)→「超えたよ」。ここで、かつて大泉洋と水曜どうでしょうの間にあったMNDサイクルが成立してしまっているのだ。筆者もはまりたての頃に買った礼真琴ボールペンを未だに使っているが(ジェットストリームで書きやすい)、ペン軸に書かれた「Go Beyond The Limit!!」を見るとつい目を反らしてしまう。ボールペンなのに前向きの圧が強い。

もちろん、本稿は面白おかしく書きたいだけであるので、稽古の過程で本当にタオルを投げるべき事態があれば作家陣は即座にそうするだろう。しかしなんせ宝塚は東西に自前で専用劇場を持っている分、公演数が笑っちゃうほど多い。兵庫と東京を合わせて丸3カ月、日に2回、週休1日で計150公演ほどの長丁場をこなす公演もある。しかもほぼ厳格なシングルキャスト。他の劇団に比して設定からかなり無理目なのだから、演出上の無理の加減は、よくよく見極めてほしいと思う。

限界を超えろ!と礼真琴は言うが、人間には限界がある。昭和では美徳とされた若さややりがいの搾取は、もはや清くも正しくもないのだとガッキーが(逃げ恥で)教えてくれてから、既に数年経っている。宝塚に高校野球的な側面があるのは承知しているが、ファンは別にそこに課金しているわけではない。大抵のファンはいつも、建前ではなくかなり本気で、応援するジェンヌが元気で幸せで、大切にされ、一秒でも長く舞台人でいてほしいと願っている、ように思う。

「何してやろうかなあ」と作り手に思わせる力と、節目節目で身の丈を超えるパワーを発揮すること

大泉洋がここまで出世する(まさに「世に出る」という意味において)とは、恐らく当初の水曜どうでしょうファンは思っていなかった。今も、幼い頃の夏ごとによく遊んだ遠方の従兄弟みたいな気でいる。どうでしょう終了後、いくつか全国区のバラエティに登用されたのち、まず彼には「茄子 アンダルシアの夏」の声優として大きな仕事が来た。その後「レイトン教授」、ドラマでは「ハケンの品格」が大きいか。

こういう初期のターニングポイントで彼は、全世界にいる水曜どうでしょうファン、すなわち「親戚気取りで口さがない、必要悪でしかないファン(=筆者)」の見積りを大きく超える、大変素晴らしい仕事をしてきた。器用でなんでもできることは知っていたが、(結構自意識高そうな)彼自身にこれほどプレッシャーを超える力があったとは、彼自身も思わなかったのではないか。ホームのようなアウェイのような、生ぬるく見守る人々の期待が重く沈んだ大地を踏みしめて確実に力を発揮し、いまや主演級の性格派俳優の屈指に数えられるまでにのぼりつめた。

どんな小さな仕事でもターニングポイントになり得るもので、しかしすべての仕事に全力を注力するのは、長じるほどに難しいことだ。若くて体力のあるうちに、真摯に取り組み、完成された仕事を見せることは出世において重要なのかもしれない。
そして結局、「何でもやるから」と言う人に作家は「何してやろうかなあ」と思うし、結果として何でもやれるようになるという、ビジネス書みたいな結論なのかもしれない。大泉洋と礼真琴という、器用貧乏という早急な見立てを必死にクオリティで覆してきた、いわば器用大尽なスターから学べることがあるとすれば、「ここ!という仕事は死んでも逃すな」「死ぬ気でやってると誰かが見てくれている」という、またつまらない親父の小言に落ち着いてしまうけれども、片や大河ドラマで、片や「おとめ」(※宝塚の選手年鑑)の顔として活躍するお二人を眺めて、筆者は今こんなことを感じている。

「すごいですね」の誘惑に抗って

2021年、基本的には再演である「モアー・ダンディズム」の中で、礼真琴率いる星組のために書き下ろされたある新場面がある。舞台中央のセリ上で突然死んだ礼真琴(礼真琴すぐ死ぬ)、数秒の暗転ののち、下手端で悲しみの舞を舞い始める舞空瞳を「今日もきれいだなあ」と眺めていると、またわずか数秒後に、真反対の上手端から突然思念となった礼真琴が現れる。結構な瞬間移動で、かなりの速さで走ったはずなのに息は上げずに、静かにほほえみながら現世の舞空瞳を見守る。そこに礼真琴の事前録りで「私のお墓の前で泣かないでください」的なナレーションが入るのだが、筆者は礼真琴に課せられる試練ウォッチャーなので気づいてしまった。『これ、生で言わせるつもりだっただろ……』と。そして(ここは録音で乗り切った)ナレーションが終わると、下手の舞空瞳のコーラスに被せてほほえみながら礼真琴は歌い出す。朗々と。まだ息を整えているところでは……?

君のそばに 仲間がいる
勇気を出して進もう 明日のために さあ 立ち上がろう

警察学校みたいな歌詞に壮大なメロディ。舞空瞳を囲む仲間たちは、礼真琴の遺志を継いでよりよい明日への努力を誓う。礼真琴はそんな仲間たちを遠く上手すっぽんから見て満足そうに頷きつつ、地声と裏声の間の一番キツい声域で「立~~~ち~~~上~~~が~~~ろ~~~~~~~~(ドレミファソの音で)」と笑顔で、たっぷりとロングトーンを決め、セリ下がって消えていく。礼真琴ともなるとこんなに全力で死んでいかなければならないのか。その笑顔のこめかみにうっすら浮かんだ青筋と、最後は奈落へ指先のみになって消えていくときの、かすかに震えるその指が忘れられない。できるからって、面白いからって、やらせないで!グラン・カンタンテ(偉大な歌い手)なら踊らせないで。千葉真一なら歌わせないで。でもでも……やっぱり観たい。柳生十兵衛で、踊りながらすごく歌えるの観ちゃったから。こういう(体力的に)すごいものを見せたい&見たいという、言わば単純な「すごいですね」の誘惑を、作家も観客も、そして礼真琴自身もちょっとはセーブしていくべきではというのが本稿の意図だった。限界を超えるにも限界がある。



まあ、毎作あてがきで作品が作られる(宝塚のトップでいる)なんて限られた間なのだから、余計なお世話でしょうけど……。と思うと寂しくなるからこの辺で終わるが、よくよく喉と命をだいじにしてほしい。筆者が30年くらい先に是非とも観たいのは、市村正親と鹿賀武史みたいになった礼真琴と瀬央ゆりあが「ラ・カージュ・オ・フォール」とか「プロデューサーズ」とかをやるところなのだ。

今日も今日とて、公演中にも関わらずスカイステージ20周年記念ソングを山下達郎ばりの多重コーラス録音(全部自分の声)で歌い上げている礼真琴さん、ほか、無理をしがちなすべてのジェンヌの健康を、末永く客席から祈っている。劇団は加減を知ってください。


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