見出し画像

走る化粧室

 平成中期、まだスマホではなくガラケー全盛の時代、列車内は「携帯を触る親指姫、深夜に帰宅のシンデレラ姫、化粧鏡を見つめる白雪姫(の継母)といったお姫様で一杯」などと揶揄されていた頃のお話…

 その日は朝から憂鬱だったのだ。折角四方八方奔走して企画したプロジェクトが重役の鶴の一声で没!
――頭を下げて頼んで回った人達に今度は謝りに回るのか…
暗い気持ちになっても出勤しない訳には行かず上着を抱えたまま阪急高槻市駅からいつもの通勤特急に飛び乗った。
 旨い具合に、駆け込んだドアのすぐ右手の座席の中年男性が慌てて眠りを振り切って「駆け出し下車」をやってくれた。スルリと座席を確保するのは慣れっこだ。
――少しは「ツイテ」来たか?いやいやこんな処で「ツキ」を使っている様じゃ世も末か?
などと思ったのも束の間、右隣が何やら騒々しい。隣席の女性が徐(おもむろ)に化粧を始めたのだ。十年以上は使い込んだと見えるサンリオキャラクターの図柄入りのピンク色の手鏡を取り出しパタパタやり始めた。どんなヤツか振り返って見る訳にも行かないが、鏡にチラッと映る姿からは年齢(とし)の頃なら三十台前半か?動作からはどうやら左利きだ。右肩の辺りに不愉快な振動が伝わってくる。
――車中で化粧を始める女で美人は見たことが無いな…全く…どうせ梅田は終点だ。寝て過ごせば気にせずに済むだろう。
と逃げる様に浅い眠りに入った。

「皆さん、間もなく十三、十三でございます」
聞き慣れたアナウンスが耳に入ったその瞬間だったと思う。キキキー!! 急停車だ。
――あっ!
と思った時は既に遅かった。隣の女が物理の法則に従ってこちらに倒れ掛かって来た。それも何を思ったか自分を支えるためにルージュを持った左手で俺の腕を掴みに来たのだ。
「おいおい」
声にもならぬ言葉を発するが早いか俺のシャツの袖は極めて部分的に紅く染まった。

 こんなとき他の人ならどうするんだろう?普段の俺なら冷静に文句の一つも言えたと思うがこの時は虫の居所が悪過ぎた。
「おいっ!どうしてくれるんだ?第一いつまで車内でパタパタやってるんだ!化粧なんて人前でやらないから化粧なんだ。トイレのことをなぜ化粧室っていうか教えてやろうか?」
普段から内心思っている言葉が連発銃の様に弾き出た。
――ちょっと言い過ぎたか?
などという心配は次の瞬間そのあつかましそうな女が打ち消してくれた。
「あら?お手洗いとも言うじゃないの。お宅は人前では手も洗わないとでも言うの?第一このルージュ、衣服についてもすぐ取れるスグレモノなのよ。それこそどこかの『化粧室』で水で洗えばすぐ落ちるわよ。仕方ないでしょ、急停車なんだから!! 」

 やられた。冷静さを欠いた俺の負けは濃厚だ。周りの客もどちらかと言うと女に同調している気配が分かる。
「皆さん、踏切事故防止のため急停車しましたがご心配ありません。ご迷惑をお掛けし、お詫び申し上げます」
車内を流れる放送が白々しく聞こえて余計腹立たしさが増して来た。
「電車の中で手を洗うヤツなんかいねーよ!」
自分でも訳の分からぬ捨て台詞を残すのが精一杯、雑踏をかき分け隣の車両へ逃げ出す様に駆け込んだ。

 車両間の扉の窓がピンク色だなどと言うことを気に掛ける余裕はなかった。何とあっちこっちで化粧のオンパレード。女性専用車両!
――これぞ走る化粧室か?ああ今度鉄道会社に投書してみるか。男性専用車両を作ってもらえないものか?化粧オフ車両でも良いが…今の状況は男女平等の観点から見て不公平ではないか?
行き場を失いどちらの車両にも戻れずデッキというにはあまりにお粗末な連結部で惨めに終点を待つ羽目となってしまった。

「梅田ー梅田ー」
ようやく到着。解放されるとちょっと冷静になった。酷い目に遭ったがそんなことよりどこからどう謝って回るか考えないと…
――「スグレモノのルージュ」でも手土産に持って行くか…
思わず浮かんだ妙案?に苦笑しながら梅田の人混みの中、上着でシャツを隠して会社へ急ぐ俺であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?