【ショートショート】「タクシーメーター上がる上がる」(4,875字)
「降水確率って五十パーセントだと二分の一の確率で雨が降るってことなのかな」
清川は手をあげてタクシーを止めようとしていた鈴木に声をかけた。
「どうですかね、降水確率八十パーセントって言われて五回に一回は降らないかっていうと、そんなこともない気がしますけど」
タクシーは二人の前を通り過ぎていった。すでにほかの客を運んでいる途中だったようだ。
「じゃあ何パーセントから降るんだよ」
「知りませんそんなこと。十パーセントでも降るときは降るし、九十パーセントでも降らないときは降らないでしょう」
なかなかタクシーが捕まらず、鈴木は少し苛ついていた。
時間は深夜一時をまわり、とうに終電は行ってしまっていた。
仕事終わりに会社の同じ部署の部長である清川に飲みに誘われ、二軒目三軒目とはしごするうちに気づけばこんな時間になってしまった。
清川の好きなフィリピンパブに付き合わされるといつもこうだ、鈴木は自分だけでも先に帰ればよかったと後悔した。
「タクシーと言えばこんな噂は知ってるか?」清川は機嫌よさげに言う。
「知りません」
「まだ言ってねえだろ」
「どんな噂ですか?」
「タクシーって料金のメーターが上がってくじゃん」
「上がりますね。タクシーが走った距離で料金が決まるんで」
「あのメーターがさ、おかしな数字になってるタクシーがあるって」
「おかしな数字って、ぼったくられるってことですか? ワンメーターで一万円とか二万円とか」
鈴木は首を傾げた。ぼったくりバーなら聞くことがあるが、ぼったくりタクシーなど日本にあるのだろうか。
「いやいや違うんだよ。そのメーターの数字は料金じゃなくて――あ、タクシー来たみたいだぞ」
清川が指をさすので、鈴木は慌てて手をあげてタクシーを止めた。タクシーのドアが開き、二人は後部座席に滑り込んだ。
「まいったまいった。遅くなりすぎてまた母ちゃんに怒られちゃうよ」
妻のことを母ちゃんと呼ぶ清川にジェネレーションギャップを感じながら、鈴木は運転手に行き先として清川の自宅の辺りの住所を告げた。
清川の自宅があるのはここから峠を一つ越えた車で二、三十分ほどの場所だ。タクシーだと三千円から三千五百円といったところだろう。
「あれ?」
鈴木はおかしなことに気づいた。
タクシーの初乗り料金は地域によって違うと聞くが、この辺りは五百円から六百円程度だったはずだ。
その数字が表示されているはずの部分に見慣れない二つの数字が並んでいた。
『一三〇』・『一八二』
最近のタクシーは料金が割り勘できるようになっているのか? いや、それなら半々になっていないのはおかしい。
酔っていて見間違えたのか、鈴木は目をこするが、表示されている数字は変わらなかった。
「あ」鈴木は先ほど清川が言っていたことを思い出した。
(メーターがおかしな数字になっているタクシーがあって――)
酔った上司の作り話かと思ったが、このタクシーのことではないか、鈴木はそう確信した。
タクシーのメーターが上がるのと同じように、表示されている数字が変わった。
『一五〇』・『二〇二』
数字が少し増えたようだ。
どくん、と急に胸が詰まるような感じがした。酔いが回り始めたかと思ったが、それにしてはどうも様子がおかしい。
ふと清川の様子を見ると、前かがみになり胸を押さえて苦しみ始めていた。
「部長、大丈夫ですか?」鈴木は清川の背中に手を置いた。スーツを着ているにも関わらず汗でしっとりと濡れていた。顔は青白く息切れがしている。
その光景を見るうちに、鈴木は今日の昼に清川が話していたことを思い出した。
「いやーこの間の健康診断、ついに引っかかっちゃってさ。血圧の上が百八十を超えちゃってて、再検査だよ、あはは」
収縮期血圧――つまり心臓が圧縮したときの血圧は百四十をこえると高血圧とされ、血圧が高くなるにつれて心臓病や脳卒中で死亡する危険性が高まるという。
ひょっとしてこの数字は自分と清川の血収縮期血圧の値じゃないだろうか――。
『一七〇』・『二二二』
数字がまた上がった。
急激な血圧の変化のせいか胸の痛みが耐えきれないものに変わっていた。清川は鈴木の隣ですでに意識を失っているようだった。
「降ります、ここで降ろしてください!」
鈴木は運転手に告げて、無理やりドアを開けるようにして外へ出た。
意識を取り戻した清川を引きずるようにしてタクシーから降ろし、吐き気がするというので背中をさすっていると、
「困るんですよね、吐き気がする方が乗車されるのって」と心底嫌そうに言って運転手はタクシーを発進させてしまった。
かかりつけの医院から貰っていたという血圧を下げる薬を飲ませると、すぐに清川は落ち着いたようだった。
「すまんすまん、ちょっと飲みすぎたみたいだな。少し休めば良くなるよ」
おめでたいというか、清川は先ほどあったことにまるで気づいていないようだった。
ついでに鈴木も清川の降圧剤を勝手にもらって飲むと、先ほどまで脈打っていた心臓の動きが少し落ち着いたような気がした。二人ともだいぶアルコールを摂取していたので心配だったが、大した影響はないようだった。
さて、不思議な体験をしたことはひとまず置いといて、問題はここからどうするかだ。鈴木は辺りを見渡した。
降りたのはちょうど峠の頂上あたりだった。ふもとまで歩くと一時間以上はかかるだろう。
「お、偶然タクシーが来たぜ。おーい」
気づけば後方で、清川が通りかかったタクシーに手を振っていた。
「俺たちツイてるな、いやツイてるのは俺だけかな。がはは」
死にかけたばかりとは知らずに笑う清川のあとをついて、鈴木もタクシーに乗り込んだ。
運転手に行き先を告げると、鈴木は背もたれに背中をつけて目を閉じた。
血圧が急に上がったことが影響しているのか、ひどく疲れていてすぐにでも眠りたかった。
不意に尿意を感じて鈴木は目を覚ました。どうも数分ほど眠ってしまっていたようだった。
ふと、股間の辺りに少し冷たさを感じた。
(あ……)
鈴木は自分が小便をチビってしまっていることに気付いた。三十六歳にもなってタクシーでお漏らしをしてしまうなんて……。
臭いで運転手に気づかれていないだろうか、前方に目を向けると、鈴木の目にある数字が映った。
『四二』・『五八』
またもや料金メーターの数字がおかしかった。単位は「円」ではないだろう。また数字が二人分用意されていることがそもそもおかしい。
これまで感じたことのない倦怠感を覚えながら、鈴木は大きないびきをかいている清川の肩をゆすった。
「部長、起きてください部長!」
目をしばしばさせている清川の顔を見て、鈴木は噴き出してしまう。
「部長……ぶふっ、毛が……ぷぷっ」
清川の髪の生え際はタクシーに乗ったときから二、三センチほど後退してしまっていた。
必死で笑いをこらえながら、鈴木は笑い事ではないことに気づいた。
『四五』・『六〇』
さらに数字が三ずつ加算された。
急に肩や腰が痛くなり、窓の外の景色が見えづらくなった。
手の皺が少し増えたような気がし、風が通る感じがして後頭部に手をやると明らかに毛髪量が減っていた。
まさかこのメーターは、自分たちの年齢が上がっていくメーターじゃないだろうか――鈴木は血圧が上がっていったとき以上の恐怖を覚えた。
「降ります、今すぐここで降ろしてください!」
鈴木が叫んでも、タクシーは減速する素振りを見せなかった。
よく見ると、まだ若そうなタクシーの運転手は耳にイヤホンを付けて音楽を聴いていた。
『四八』・『六三』
節々の痛みや全身の疲労感がさらに増した。
(すぐに降りないとマズい――)
鈴木は半ばパニックになり、ガチャガチャと後部座席のドアレバーを引いた。ロックされておりドアは開く気配がない。
「降ろせ、この……降ろせ!」
鈴木は運転手の男の肩を二度三度と殴りつけた。
驚いた様子の運転手は後部座席のドアを開け、清川と鈴木がタクシーを降りると同時に逃げるように走り去っていった。
「お前、なんてことするんだよ。タクシー代がないなら俺が奢ってやったのに、なにも運転手殴んなくていいだろ」
いつも一円単位まで割り勘を要求してくる清川がここまで言うのだから、よほど驚いたのだろう。
わざわざ説明するのも疲れるので、鈴木は路肩に座り込んだ。清川もその隣に腰を下ろす。鈴木は煙草に火をつけた。
「部長、さっき話してた、変なタクシーの話覚えてます?」
「ああ、メーターがおかしな数字になるってやつ。お前、もしかしてあんな話信じてんの?」
清川が真面目な表情をして言うので、鈴木は呆れた。
「あれ、たぶんマジっすよ」
「お前、いつも俺の話なんて話半分にしか聞いてないくせに、そういうことだけはちゃんと聞いてるんだな。あれは俺の作り話だよ」
「嘘でしょ?」
「本当だ。それより俺の話ちゃんと聞いてないってとこは否定しないんだな」
「部長の話もちゃんと聞いてますよ」
「嘘つけ。ま、俺みたいな上司の部下になってツイてないと思うけど、我慢してれば異動なんてすぐだからな」
「俺一応、部長のこと尊敬してますよ」
「馬鹿、一応は余計だろ」
清川は鈴木の頭をこつんと叩いた。
「お、タクシー来たぞ。そろそろほんとに家に帰らないと母ちゃんカンカンだ」
鈴木は手をあげてタクシーを止めた。
運転手に行く先を伝える。ここからだと十分前後で着くだろう。
ふと気になって、鈴木はメーターに目を向けた。
『〇』
ゼロは怖い。なんの数字なのか全く想像できないし、例え料金であってもゼロというのは怖かった。
鈴木は清川の耳元でささやいた。
「部長、ほら、メーターおかしいですよ」
「馬鹿、俺もとっくに気づいてるよ」
さすが部長、仕事はできないと評判だが、見るべきところは見ているのだ。
「初乗り料金0円なんてラッキーじゃねえか。運転手気づいてないみたいだから絶対言うなよ」
ダメだこいつ……鈴木は暗澹たる気持ちになった。
『三〇』
数字が変化する。心拍数を確かめ、自分の髪の毛などを触ってみるも、特に変化は感じられなかった。
タクシーが交差点を曲がる。清川の自宅まであとメーターが二回ほど変わるだろうか。
鈴木は周囲に注意深く視線を走らせる。清川は外を見ながらのんきにあくびをしていた。
『六〇』
ぱらと、フロントガラスに雨粒が落ちた。次の瞬間には無数の水滴が空から落ちてくる。
ふと外を見れば雨雲が出ており、先ほどまで見えていた月が隠されてしまっていた。
「あ」
鈴木の口からそんな声が漏れた。
「どうした?」清川が尋ねる。
「部長、俺わかっちゃいました」
「何がだ」
「ほら、さっき部長が言っていた、降水確率何パーセントから雨が降るかって話」
『九〇』
外では雨がざあざあ降りになっていた。運転手がワイパーを高速に切り替えるが、雨の勢いは強く、前がほとんど見えないほどだった。
「降水確率は六〇パーセントから雨が降り出すんですよ。俺、今見てましたもん」
「なに言ってんだお前。五〇パーセントでも降るときは降るだろ」
「……それもそうですね」
タクシーは清川の自宅の前に停車した。
「なんだ、お前も一緒に降りるのか?」
先に降りた清川のあとをついて、鈴木もタクシーから降りようとした。
鈴木の家はここから歩いて十分ほどの場所にあった。このままタクシーに乗って帰っても良かったが、少し歩いて帰りたい気分だった。
ふとメーターを見ると、数字はゼロにリセットされていた。
タクシーから降りると、あれほど降っていた雨はきれいにあがっており、大きな満月が二人のことを煌々と照らしていた。
タクシーは二人を置いて闇の中へ走り去ってしまった。
「ラッキーだったな。あの運転手、料金受け取るの忘れてったぜ」
「前から思ってましたけど、部長って幸せですよね」
「そうか? それはそうと、お前少し老けた?」
「それを言うなら部長もですよ」
二人の酔っ払いは互いの少し薄くなった頭を指さすと、いつまでもそこで笑いあっていた。
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