生きていくのに必要のないものが、たまらなく恋しい

切迫早産入院18日目。明日退院できることが決まったけれど、1週間後の検診でまた子宮頸管長が短くなっていたらまたすぐ入院になると聞いて、

わかってはいたけれど、退院できることよりも、一週間後にまた入院するかもということに、自分で思っていた以上に落ち込みました。

なぜだろう。なぜここに帰ってきたくないのだろう。

病院は安全だし、助産師さんも先生も優しいし、栄養バランスの良い食事が黙っていても三食出てくるし、生きていくのに必要なものは何だって揃っているのに。

窓からは青空も見れます。緑の木々が風に揺れるところも。

あぁでも、青空も木々のざわめきも見ることはできるけれど、安全のために20センチしか開かない病院の窓からは、感じることができないのです。風も、緑の匂いも、夏の暑さも。

助産師さんは優しいけれど、皆忙しいので心が触れ合うまで会話することはできません。

ご飯は三食出てくるけれど、最後の晩餐の候補になるようなメニューが出てくることはありません。

病院では生命を維持するはできても、生きていると実感できるような、魂が震えるようなことはないのです。

生きているとは何だろう。

家族の団欒、美しいグラスに入った氷が鳴るミルクティー、シャガールの巨大な絵、眼前で聴くアリア、映画館で買うバターの乗ったポップコーン、雨上がりの恋にアスファルトの雑草。夏空の下で飲む走った後のスプライト。

不思議なことに、生きていると実感させてくれるのは、生きる喜びをくれるのは、今ひたすらに恋しいものは、生きていくのにおよそ必要のないものばかり。


あぁでも今、生きていくのに不要なものを渇望している人は私だけではないはずで、

コロナ禍により死への恐怖を植え付けられると同時に、生きる喜びを奪われてしまった人たちは多いことでしょう。

いつかこの状況が終わるという希望に生かされている私たちにまた、生きていくのに必要のないものにバカみたいに囲まれる日々が早く訪れますように。





謎ポエム





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