「自分」というものが見つからないあなたへ No,5 自分の人生を歩むきっかけ

引っ越してから3か月は毎日死ぬことばかり考えていた。

そのストッパーになってくれたのが家の犬だ。こいつは動物愛護センターで生まれて母が引き取ってきた。大げさではなくこいつがいなければ、私は引っ越しをする前に死んでいただろう。私の「人生の師匠リスト」にこいつのなまえも書いてある。

なんとか現実を見る余裕ができた私に浮かんできた感情は、焦りであった。

食っていかなければいけない。当たり前である。

手当たり次第に履歴書を送った。そして片っ端からお祈りの返信が来た。

これも当たり前である。私の履歴書をみて、正常な感覚であれば落とすだろう。

絶望の中、何とかアルバイトとして働くことが出来た。この成功体験は今までの仕事でのそれの100倍の充実感があった。本当に心からありがたかった。

アルバイトをしながら、これから自分がどうやって生きていけばいいのか死ぬほど考えた。私はひたすら自分の心に問いかけていた。

チャンスというものは実はそこら中に落ちていて、問題なのはそれを拾う側が受け入れられる状態なのかということではないだろうか。

ある日、臨床心理士という言葉に出会った。

私の誤った考え方を正してくれた人の肩書だった。それについて調べたら、心療系の大学が社会人選抜入試という形で受け入れているということを知った。

次の日、私はアルバイト先に「受験に集中するために辞めさせてくれ」と言っていた。

迷いは一切なかった。

受験当日、若々しいエネルギーに満ちた面々に混じって、30過ぎのおっさんが一人受験した。場違い感がハンパなかった。

よくできたドラマであればこれを機会に主人公がバリバリと活躍していくんだろうが、現実はそんなに甘くない。

私は見事に落ちた。実に清々しかった。

これを機会に私は吹っ切れた。私はアルバイトならできるというボーダーラインが後押ししてくれた。

時間ならたっぷりあった私は、その日図書館に籠っていた。税金を払っているんだから公共施設を使用しなければ損である。

時代小説、レシピ集、衆議院の成り立ち、といった本をひたすら流し見していた。

その本を手にとったのは本当にたまたまだ。作り話臭いがこれはマジで本当だ。

「仏教はじめの一歩 著者:ひろさちや」

何とはなしにパラパラっとめくった。

私が夏休みに意味も分からずに唱えていた、お経の語句が次から次へと現れた。そして私の頭の中にあるお経に日本語訳がついていった。

その本は私の中に何の違和感もなく浸透していった。

不思議な興奮を抱えたまま私は帰宅した。その夜湯船に浸かりながら図書館で出会った本についてはんすうしていた。

そこでまた自分の過去とその本がリンクすることになる。

あなたは「苦にしない」という語句の本来の意味をご存じだろうか。

現在の日本では「へこたれない」とか「ひるまない」といったニュアンスで使われていると思う。

これは本来、仏教用語で「苦」=「思い通りにならない」

すなわち、「苦にしない」=「思い通りにしようとしない」ということだそうだ。

もっとざっくり言えば「あるがままに」と言うことになる。

私が職を転々としていて母がインストラクターになる宣言を行う、ちょっと前くらいの時期だった。

ある日母が、仰向けになってち〇ちん丸出しで寝ているうちの犬を指さして

「見てごらん、あるがままに生きているでしょ。お手本にしなさい」

と言った。

何言ってんだ家のババアはと思った。

こんな野性味のかけらもないちんち〇丸出し野郎の何をお手本にしろって言うんだと思った。

母は、「やっとバラナシで沐浴できた」と目を輝かせて言っていたひとである。仏教についても勉強していたはずだ。

その日浴槽に浮かびながら、あの時母が言っていた本当の意味が理解できたのである。

ここまでの文章を客観的に見返してみたら「だからどうした」と言われそうだと気づいた。

まぁ、とにかく自分の中の点と点がつながったんだと言うことを記録しておきたかっただけである。許してほしい。






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