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「自分」というものが見つからないあなたへ No,4 会社員時代

高専卒業後

一年間公務員浪人をしたが受からず、21歳で会社員になった。

その後私は20代のすべてを使って転職を繰り返すことになる。

3社目となる東京の会社に初めて出社した日、挨拶を終えた私に先輩が「お前、高校生みたいだな」と言った。

この一言がすべてを表している。私の中では16歳で時が止まっていた。

どの会社でも、仕事はそれなりにできた。ただコミュニケーションがうまく取れない。俗にいう"コミュ障"だ。私の中には「人と談笑して楽しむ」というパーツが欠落していた。

自己を確立できていない弊害が確かなものとして、顕在化してきていた。

その会社に入社してから一年ほどたったある日、それはいきなりやってきた。

朝目覚めたら起き上がれなかった。その日は会社を休んだ。

翌日、同じように起き上がれなかった。しかし、2日も連続して休むわけにはいかなかったので、なんとか着替えるところまではできた。しかし、アパートの扉を開くことが出来なかった。

心療内科に行ったら、適応障害と診断された。

その後会社から一週間の休暇をいただいたが、私は一歩もアパートからでられずかろうじて夜中に、近くのコンビニに行き食料を買っていた。

人の視線が怖かった。

そして、その会社も退職することになり実家に戻ってきた。

それから3か月後、心療内科にかかり直したときに病名がうつ病に変わった。

ちょうどこの頃だっただろうか、母が「ヨガのインストラクターになる」と力強く宣言した。もともと趣味でやっていたのは知っていたのだが、本業にするとは思ってもいなかったので驚いた。

それからのあの人は凄かった。

仕事から帰ってきて、ヨガや人体工学の本を読み漁り、私にはよくわからないインストラクターに必要な資格を取りに毎月東京に通っていた。

そしてあの宣言から一年後、町内の公民館でヨガ教室を開いた。

瞬く間の出来事だった。

私はというと、うつ病から躁うつ病へ病名が変更され、犬の散歩と読書ができるまで回復していた。まったく情けない話だ。

薬を飲んで病気をコントロールしつつ、就職活動をへて私は何とか仕事にありつけた。

病気についても勉強して自分なりの対処方法を見つけたし、職場でも引きつった笑顔を顔面に張り付かせてなんとか働いていた。

そんなある日、母にがんが見つかった。ステージ3の卵巣がんだった。

摘出手術を受けたがすべてを取りきることはできずに、年齢が若かったこともあり、がんの進行は早かった。がん発見から半年後に母は亡くなった。

じつは、ここら辺の記憶がよく思い出せない。霞がかったようで漠然としている。半年後じゃなかったかもしれないがともかくそのくらいの期間だった。

母の葬儀も同じようによく覚えていない。ただ黙々と無難な喪主をつとめた。

母の葬儀後しばらくして、仕事をやめた。なにもかもどうでもよかった。

只々疲れた。

その後のことは、私自身思い出したくもないし、何も生産性がないので省略させて頂くが、結果として祖父母をおばに任せ、私は実家を捨てることにした。

犬だけつれて私は引っ越した。それがこれを書いている2年前の出来事だ。

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