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「自分」というものが見つからないあなたへ No,2 小学生~中学生時代

転校後、一週間くらいは休み時間に一人で黙々とバスケのシュートを打っていた。

一年生の私にはまだリングが高くて、はじめてあの輪っかにボールを通せたときは本当に嬉しかった。

自然と、みんなでバスケをするようになっていた。

バスケと子供特有のフレンドリーさに助けられて、特にいじめられることもなく私はB小学校の一員になれた。これは本当に周りのみんなのおかげだと思う。

小学校の思いでと言えば、登校旗を思い出す。

直径1cm、30~40cmくらいの塩ビ管に横断中と書かれた黄色い旗がついている。工事現場などで、交通誘導員の方が振っているあの旗の小学生版と思ってもらえればいい。

これは、5年生、6年生だけが持つことができる。本来の使い方は集団登校の道路横断時にそれを掲げて、下の学年の子たちが横断するのを守るためのものだ。

小学5,6年生の男子がこんなものを授かったらどうなるか、だいたい想像がつくだろう。

K君はよくカタツムリを打ってノックしていたし、H君は雪をつめて吹矢みたいなことをしていた。

私はというと、トランペットみたいに吹いていた。これがなかなか難しい。

ちゃんと唇を震わせないとまず鳴らない。管楽器を始めてみたい方がいたら、まず手ごろな塩ビ管を吹いてみてほしい。

バカな子供だった。

気が付いたら登下校の話ばかりになっている。

私の住んでいた町は少し変わっていて、夏休みの間、ラジオ体操が終わってから町内のお寺に行ってお経を読むことになっていた。

一年生の二学期に転校してきた私は、二年生の夏休みに初めてこれに参加して小学校卒業まで続くことになる。当時は正直やる意味がわからなかったし、早く帰ってポンキッキーズが見たかった。

その町内で育った子供全員がお経を暗唱できるようになる。今現在30代になった私も始めから終わりまで暗唱できる。

日常的に役立つ特技ではないかもしれないけれども、後の私にとって重要な役割を果たすことになる。

前述したけれども、私の通っていたB中学校はB小学校のすぐ近くにある。私立の中学を受験する少数を除いた、小学校のメンバーがほぼ変わらず中学校に入学することになる。

中学校生活は順調だった。成績は中の上くらいで、卓球部に入って楽しかった。

ただ、このあたりから家庭内がきな臭くなっていた。結論から言ってしまえば「嫁姑問題」ということになるんだろう。

発端は何だったか思い出せない。たぶん細かな行き違いが少しずつ積み重なって大きな亀裂として現れたのだろう。

街中生まれの母と閉鎖的な田舎の中で生きてきた祖父母の、価値観の乖離があまりにも大きかったのだと今になって思う。

母は祖父母と口をきかなくなり、祖父母からも進んで話そうとはしなくなっていた。

それから度々、深夜まで父、母、祖父母の会議が開かれていた。私たち姉弟は階段の陰からこっそりとその様子をうかがっていた。会議を重ねても、母と祖父母の溝は深まるばかりだった。

父は疲弊していた。

このあたりから両親の夫婦喧嘩をよく目にするようになった。

もし、人生で一度だけ過去に戻れるならば私は迷わずにこの時期を選ぶだろう。あの時もっと自分が大人で、両親の話を聞く余裕が持てていれば違った形の未来があったはずだ。

私の中学生時代の記憶はほぼ家庭内の冷たい空気だけである。




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