大佐に手紙は来ない / G・ガルシア・マルケス 感想

『ママ・グランデの葬儀(集英社文庫)』に収録の中編「大佐に手紙は来ない」の感想を簡単に書きたいと思う。

文庫本裏表紙にこの作品の紹介として、「喘息病みの老妻と恩給のくるのを待ち続ける老大佐の日々を偏執的とも言える簡潔な文体で描いた」とあるが、まさにこの簡潔な文体によって、恩給や軍鶏といった寄る辺ないものにすがる大佐とそれに長年付き合っている妻との鬱屈とした貧しい生活が、レンガがひとつひとつ積みあがっていくように立ち現れてくる。百年の孤独のような即物的かつ超現実的な表現はないが、マルケスの小説の土台はこの「偏執的とも言える簡潔な文体」なのだろうと改めて感じた。

以下、感想。

七十五歳の大佐とその妻の生活を楽にするには、15年間待ち続けている恩給の知らせの手紙を受け取るか、死んだ息子が残した軍鶏による賭けの勝利によってだけである。大佐は毎週金曜日に港へ赴き、到着したての郵便局長から恩給の知らせの手紙を手渡されることを待つが、「大佐に手紙は来ない」。一方、息子が残した闘鶏として立派な軍鶏は数か月後の試合にむけて、貧困のなか自分たちの食糧でさえ、食い尽くしていく。どちらも大金が手に入り、生活が楽になる不確かな希望である。だが、2つの希望は対照的である。恩給は大佐の軍人としてのこれまでの業績に対する報いとしての希望であるが、軍鶏の勝利は現在の生活を犠牲にする、いうなれば勝利への投資の結果としての希望である。また、軍鶏は村の連中が軍鶏の世話代を工面するなど、その勝利を皆が期待しているのに対し、大佐の恩給は誰一人、そして大佐やその妻ですら、本心は期待をしていない。

いずれの2つの希望も大佐夫妻にはどうすることもできない。ただただ、毎週金曜日に港に向かい、そして生活を軍鶏に食わせるだけである。
その中で唯一、自分たちの手で幾ばくかの金を手に入れる手段は、軍鶏を試合の前に売りさばくことである。この現実的な解を拒否し続けた大佐も、何度も迫る大佐の妻に折れ、村の金持ちに売ることを試みる。だが、足元を見られ、期待する額では売ることができなくなってしまう。結局、現実的と思えた小さな希望すら裏切られてしまうのだ。

ある晩、昼飯も買う金もなく、喘息の発作で不眠が続く妻が、軍鶏の勝利を期待し売る決断をしない大佐に耐え切れず強く迫る。

「そのあいだあたしたちはなにを食べるの?」彼女はそう詰問し、大佐の下着の襟をつかんだ。そして彼を烈しくゆさぶった。
「言ってちょうだい、あたしたちはなにを食べればいいの?」
大佐は七十五年の歳月 ー その七十五年の人生の一分、一分 ― を要して、この瞬間に到達したのであった。
「糞でも食うさ」
そう答えたとき、彼はすっきりした。すなおな、ゆるぎのない気持ちであった。

「大佐に手紙は来ない」 G・ガルシア・マルケス

軍人として報われることがなかった七十五年の人生を背負い、恩給という希望の残骸にしがみつづけてきた大佐は、軍鶏を売るという目の前の現実を捉えるより、同じく”糞”である軍鶏の勝利という希望を最後まで追い求めて死ぬことを決意したのだ。大佐は老いや死を目の前にして、人生の選択肢が段々と閉じ行く中で、”人生”の貧しさを味わって老い死ぬよりも”生活”の貧しさで死ぬことを選んだともいえる。貧しくあることはある種諦めが伴う。そして、その諦めの末に決意がある。その決意は、自分の個別具体の問題として、その貧しさの引き受け方を決めることである。

私は「糞でも食うさ」にすがすがしさを感じると同時に羨ましさを覚えた。
いまの生活では”糞”すら食わしてくれないのだと。


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