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満足の度合いを7割、もしくは5割にすると結構幸せなのかもしれない

「仕事するとき、完璧主義は手放した方がいい。7割くらいがいいんだよ。」

そう言ったのは専門時代に教わった教科の先生だった。

仕事で手を抜くって、何言ってんの?と内心思った。
全力でやるのが正義だと思っていた。

それで今までもがむしゃらに突っ走ってきた。無理をしてると分かってても走った。

そしてついに体は悲鳴を上げた。
仕事をやめて2年ほどダラダラした。そして教育の世界に入り、教員になったのが今の私である。


今の仕事は先生である。

といっても教科指導がメインの講師なので、授業の時間に教えるだけ。
それでも毎日授業は行われるので、気が抜けない。

授業をする際、提示するタブレットパソコンと、黒板に書く内容をしたためたノートが必需品。


正直、これらがないと授業はできない。それくらい私はマニュアル人間であり、授業に対して柔軟性がなく、自信がない。


分かってはいるけど、できない「手抜き」

そうやって、いつまでも増えない授業手法の引き出し。
なので毎日「とりあえず指導書の通りで」と日々の授業の流れをノートに作るものの、その通りに子どもが動くことなど、ない。

なぜなら、子どもは何を言い出すか分からないし、予想外、奇想天外なことを言う事もある。
それに対してどう折り合いをつけて、一つの考えとして全員に理解させるか、が、教師の腕の見せ所になるようだ。

殊に指導についてはマニュアル人間なので、予想外が来ると内心パニックになる。
うまい返しもできないから、「自分はできる」と思えないので、いつまでたっても指導に対する自己肯定感は全く育たない。

最初からレールに乗せて走らせようとしても、走る訳がない。
それが子どもなのだ。

こんな授業を繰り返しているから、今くらいになると心が枯れて疲れ果ててしまうのだ。


手抜きができれば余裕が生まれて心が枯れることは少なくなるはず・・
でも怖くてできない。答えを知っていなければ指導などできない。知識は完璧に押さえているのが先生だろう!


そんな自問自答と堂々巡りの日々である。


案外ほったらかすと上手くいくのか?

この日は、史上最低の気分だった。
前に立ちたくない。話したくない。枯れた心の成れの果てだ。
それでもやらねばならない。子どもが待っているから。

やることを伝えて、言葉は悪いが投げやりにした。
どんな考えが出るのかと思ったら、案外この日は調子が良いのか、どの子も予想以上に多くのことに気づいていて驚いた。

私自身、前もっての答えを持たずに子どもたちに任せたから、うまくいったのか?変に肩の力がなかったのか?

そこについてはまだ答えとは言えないが、もしかするとそうなのか?とは思った。

そして、

完璧主義は無駄

と、本気で思えてきた。


どんなに準備万端にしたって、子どもの動向次第であっという間に壊される。

ならば、自分にとってはかなり苦手な「柔軟性」を鍛えていくしかないのではないか。と感じた。

苦手なことに取り組むよりも、できる人に頼めるならそうしたら?

そんな標語もどこかで見かけたが、職業上それはできない。

だから、完璧を目指すよりも、大体の道筋だけを決めて、あとはできる限りのベストを尽くせばいいと決めた。
それこそが、あのときの先生が言っていた「7割くらいがいい」なのか?と思った。
まだシナリオ自体は手放せないが、中身を完璧にこなそうとするのはやめることにした。


尊敬する作家、浅見帆帆子さんはよくこの言葉を語っている。

「起きていることはすべてベスト」

その通りだな、と感じている。


私に例えるなら、授業を振り返って、「ああ、またダメだった」と一つ一つの失敗を数えて嘆くよりも、「これが今の自分のベストなんだ」と割り切る方が精神的にも楽だと思う。

いちいちできないことを掘り返すより、やるだけやった。それ以上は求めるな。無理するな。と自分を労る方が絶対自分のためになる。

確かに半年前に比べて、私もそれなりに先生らしくはなっているようにも思う。いい意味でも、悪い意味でも。

ただ、この仕事を続けるか、というとそれは拒否する。

やっぱり向かないものは向かない。
だから春までは頑張ろうと思うが、そこから先はやりたいことをやろうと決めている。
それを決める権利は私にあるのだから。

さて、できなかったことができるようになるよう、また頑張ってみることにする。
枯れた心の泉はまだ戻らないけれど、少しずつ、自分のベストの授業で突き進んでみることにしよう。


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