「ちょっと休もう」の循環
はじめのうちは、やりたいこともやらなきゃいけないことも抱えすぎて、眠気のぎりぎりまで様々こなしてベッドに飛び込んですっと寝落ちていたはずだった。
あれ。気がついたら、朝方まで寝つけない毎日を過ごしていた。
もともとから朝起きるのは苦手中の苦手。朝5時に寝ついて8時に目覚めることなど毎日できるはずもない。
しかし、たった学生ひとりが眠れようと眠れなかろうと大学は変わらず、毎日きちんと朝9時に始まる。
全力で努力して成功率20%の「寝つき」と「朝起き」。
20%は0%じゃないから、「次はできる」のだと信じて、
また目覚ましを部屋中に5個もちりばめて、起きたい時間の15分前からあちこちで鳴らして止めようとしたりした。
失敗したら「起きるなんて意識の問題だ、やればできるはず」
成功したら「ほらできるじゃん、できないなんて甘えだね」
友人の叱咤激励の言葉と私の意固地とはすばらしく共鳴し、
私は決意を新たに、来るべき睡魔にさっさと襲われようと布団の中で身構える。
…
……
………
いらっしゃらない。
日中なんかいくらでも眠たくて作業効率だだ下がりなのになー。あれー。
なんで夜に寝ようとすると目が冴えてしまうのだろう…
*
「これは朝が苦手なだけじゃない。たぶん、不眠だ」
気づいてから、眠れるようになる何かに助けを求めるまでしばらくかかった。
「誰でもできること」と言われることが私にはできなくなっているという事実を認めたくなかったのかもしれない。
得意な人にとっては、毎日同じ時間に目覚めて朝ごはんを食べるのはたやすいことだろう。
きっと、普通くらいの人にとっても「早起きは嫌だし面倒だけど、不可能ではないかな」くらいのこと。
それが苦手な私にとっては、維持するために多めの意識を向け続けることが必要だったし、
調子が落ちた私には、そんな意志力は捻出できなかった。
「ねむれないし、起きれない」
「みんなは当然みたいにやってのけることが、私にはできない」
*
あ、いまの私、案外やばいのかも。を気づかせてくれたのは、
「でも、あなたにとってはしんどいことなんでしょ?」とかけてくれた友人の言葉だった。
連日の失敗に意気消沈し、息も絶え絶えで講義室にたどり着いてはボーッとしたりウトウトしたりしてしまう。そんな私を見かねてか
「どうしても眠れないんだったら、いったん病院にかかったり睡眠薬とか使ってみるのもありなんじゃない?」
でも…ちょっと早く眠れる日もあるし、全く起きれないわけじゃないし。と渋る私に
「でも、今のあなた結構つらそうに見えるよ」
このひとことに背中を押されて私は病院にたどりついた。
最初から薬よりも生活習慣をだね…と怪訝な顔をしながらも先生が2週間分だけ出してくれた睡眠薬は
1週間も経たないうちに体内時計をすっかり"太陽のリズム"に近づけてくれたのでした。
*
しんどいとき、気軽に頼れる専門家になりたい。
つね日ごろからそんな夢を語るはずの私が、どうしてすぐ力を借りてみようと思えなかったんだろう。
"気軽に頼る"にはなにが必要なんだろう。
元気になってからもずっとずっと考えています。
叱咤激励をくれた友人を責めるつもりは、まったくありません。
じぶんに厳しくしている彼女はきっと、ふだん自分にかけている言葉を私にもくれたのだろうから。
いつでもじぶんに厳しくありたい人は、じぶんを休めるタイミングを見失ってしまいがちだし、
がんばって成功してきた人や、がんばるじぶんが好きな人は、助けを求めるタイミングに気づかずがんばりすぎてしまうことも多いのだと思っています。
「どこまでが甘えで、どこからなら助けを求めてもいいの?」
だれでもあてはまるモノサシみたいな基準を作ることなどできそうにありません。
だからこそ、
ちょっと頑張ったらちょっと休んで、じぶんをいい状態に保っておいたり、
苦しい状態に長く置かれる前に気軽に助けを求められるような循環を
ふだんお世話になっている人たち、関わってくれる人たちの間から小さく回して、少しずつ染み込ませていきたい。
友人がくれた言葉へのありがとうを、たくさんたくさん増幅して。
「充分がんばってるよ、ちょっと休みなよ。」
「つらいときは、いつでも頼ってよ」の循環を、ひと粒ずつ言葉にのせて。
サポート、ありがとうございます(*'ω'*)!