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RPGみたいな物語「バキンの地図」その1

 占いの結果は出た。もう夜明け前だ。
石に囲まれたモールト・ド・モートン城は、空気まで凍りそうなくらいに冷たい。暦の上では、間もなく春が訪れるというのに、氷のような雪は、この国を覆ったままなのだ。老齢のモートン王は、モートン城の最も奥にある「秘奥義の間」からたった一人で出てくると、玉座に力なく座り込んだ。無理もない。この三日間、一睡もせずに水晶の前で呪文を唱え続けていたのだから。
「あと十年で、この国は滅びる」
 小さな声だった。
 これほどまでに疲れ切ったモートン王の声を誰もきいたことはなかっただろう。窓の外には間もなく朝の光が差すはずだが、この空間は、二六時中、真夜中のように寒々としている。
 側にいるのは親友のバキンただ一人。
「まさか……」
「その、まさかなのだ」
 モートン王の脳裏には、水晶玉に映った燃えさかるモールト城の映像が鮮明に残っていた。
「確かに、モバイの勢力は日に日に拡大をしております。しかしながら、まだまだ我が国との戦力の差は歴然としております」
 いくらモートン王の言葉とは言え、バキンも簡単には信じられない。だが、王家に伝わる秘伝の魔法は、この国随一と言われる魔法使いのバキンですら使うことはできないのだ。モートン王の目に焼き付いた水晶の景色は、王国の未来すべてなのだ。そのことは魔法の名手であるバキンがもっともよく知っていることだ。
「あと三年もすれば、モバイが開発しておる大量破壊兵器が完成するだろう。そうなれば、我が国どころか、近隣諸国全てがモバイに滅ぼされてしまうことになる」
 もし大量破壊兵器をこの目で見なければ、モートン王であったとしても、ここまではっきりと決断できなかったに違いない。疲れ切ってはいても、バキンの顔を見つめるモートン王の表情は厳しい。
「ならば、それまでにモバイを滅ぼすしか……」
 モートン王のあまりの形相に、バキンは珍しく動揺した。
「それには口実が必要だが、不可能だ。モバイは兵器の開発を極秘に行っている。占いだけでは証拠にはならぬ」
 モートン王はゆっくりと首を振った。
「では証拠を見つけ出しましょう。私がスパイの役目を買って出ます」
 バキンは食い下がる。
「その未来も占った。たとえ証拠が見つかったところで、モバイが時間稼ぎをするだけじゃ。結局は間に合わぬ」
 モートン王は表情を変えることはなかった。
「ならば、いったい、どうせよと」
 バキンはモートン王の発する言葉が、どこへ向かうのか理解できないでいた。
「おぬしに頼みがある」
「はっ!」
「モールト王国の財宝を、どこかに隠してほしい。そして、その財宝のありかを示す地図を作って貰いたい。モバイは兵器の開発に、巨額の富を費やした。譬えモールト王国を滅ぼしたとしても、兵士に分け与える財産がなければ、財政が破綻する。つまり、モバイがモールト王国を攻めたとき、まず我々の財宝を狙うに違いないのだ」
 バキンは声がでない。
「……」
 長い沈黙が続いた。
「しかしながら……」
 バキンは戸惑いを隠せないまま、そう答えた。譬え財宝を隠せたとしても、モールト王国が滅亡したならば、意味はない。
「財宝のありかをしめす地図を作って貰いたい。一一〇年後。つまり我がモールト王国が亡んで後、ちょうど一〇〇年が経ったころ、新たな勇者が現れる。そして、その勇者が、地図を見つけ出し、必ずや平和な国を作ってくれるに違いない。それこそが、今回の占いで出た答えなのだ。
 モートン王は、もう一度、しっかりとバキンの目を見据えた。
「承知しました。だか、これほど大量の財宝を隠すとなると……」
バキンは、その後に続く言葉を、濁した。大量の財宝を運ぶには大量の人手が必要となる。つまり極秘に行うことは困難を極めるのは、明白だった。
平和を愛するモートン王が、多くの人夫を口封じするとも思えない。それはつまり唯一の方法を採る以外に方法がないことを意味する。バキンにかけられたリミットの呪文を解き放ち、バキンの命と引き替えに『風の王』を遣わせて、この国の秘宝を運ばせるのだ。
「やってくれるな」
 モートン王は、バキンに向かい頭を下げた。王が臣下に頭を下げたことなど、これまで一度もなかった。少なくとも、国王唯一の親友であるバキンでさえ見たことはない。バキンは驚きで言葉もない。
 バキンは執務室へと戻った。この国の王は無論モートン王ただ一人である。王一人で多くのマツリゴトを務めることはできない。事実その多くは宰相であるバキンにゆだねられている。モートン王を説得してモバイに攻め入ることも、権限としては有している。だが、あれほどまでに、はっきりとモートン王が口にするのは余程のことだ。
 バキンが初めてモートン王に出会ったのは十二歳、まだ少年の頃だった。モートン王は、バキンよりも十数歳年上だが、その頃はまだ王にはなっていなかった。バキンの父バロートルがモートン王子に魔法を教えていて、バキンは子供ながらに父の助手をしていたのだった。バロートルはモールト王国随一どころか、世界一の魔法使いと言われた人物だった。もしかしたら、代々のモールト王国の国王たちに伝わる秘術さえバロートルならば使えたかもしれないが、けっしてバキンに教えることはなかった。まだ子供であったバキンは、どうしてもその秘術を知りたかった。バキンは、バロートルがバキンを休ませてモートン王だけを呼ぶ時間が怪しいと思っていた。ほとんどのレッスンは助手としてバキンを呼ぶのに、いくつかのレッスンはバキンを 遠ざけていたからだ。
 どうしても、その秘術を知りたいバキンは、鍵穴からその二人だけのレッスンを覗こうとした。が、目を穴に近づけたとたん、全身を雷に打たれた。バキンは左目を失明した。髪も右半分が真っ白になった。生きているのがただただ、不思議であるほどだ。
 バロートルの怒りはすさまじかった。あれほど見てはならぬと言いつけたではないか。怒鳴り声をあげるその拳は大きく震えていた。
かばってくれたのは、モートン王だった。バキンは十分に罰を受けている。ただその大切さがまだ分かっていなかっただけなのだ。それにまだ若い、いくらでもやり直せる。
 バキンが、直接モートン王の下で働くようになったのは、それから間もなくのことであった。バキンはモートン王のために精一杯に働いた。モートン王は、自分のことよりも国民のために働くことを生きがいとしていたから、バキンにとっても、それはやりがいのある仕事であった。冬になると氷におおわれる国中にガスを引いた。交易のできる港もつくった。都市計画も、モートン王の予言に従って着実に進めていき、国が栄えていく様は、そのままバキンの誇りにもなった。
 だが、年月とともに、周囲の国々から不穏な空気が流れてきた。モールト王国の大切な技術や魔法の秘術が他国に盗まれているとの疑惑が持ち上がったのだ。
 南西に隣接するモバイが急速に国力を上げてきたのもその頃だった。
 バキンは水晶を取り出した。
「モートン王が見た景色とは……」
バキンは何時間も思考を重ねた。
 モートン国随一の魔法の名手と言われたバキンでも、国王の秘術に迫れる魔法は使えない。しかしモートン王の言葉を理解することはできる。国王が導き出した答えが最も正しいこともバキンには理解できたはずであった。
しかし、いざ実行するとなれば少々の犠牲ではすまない。そのことも、やはりバキンには理解出来るのだ。
 翌朝、さっそくバキンは部下のボージュンを呼んだ。王国の精密な地図の製作に取りかかるためだった。ボージュンは王国の砦、モールト・ド・モートン城を設計した人物だ。もちろん本当の実力はそれだけではない。軍事に関しても、この王国で右に出る者はいないだろう。
「ボージュンよ。この地図を元に、この国の精緻な地図を作ってくれないか」
バキンは、この国でも、僅か数名しか見ることのできない、極秘の地図をボージュンに手渡した。
「この地図よりも精緻なものを作れとおっしゃるのか」
「さよう」
「どれほどの縮尺を希望なされるのだ」
「縮尺はさほど問題ではない。それよりも、いかに正確で具体的であるかが問題なのだ」
「おっしゃる意味を計りかねます」
「この国の財宝を隠したい」
ボージュンには、その後の言葉が見つからない。財宝の隠せる場所を探せというはつまり、隠した後は、口封じのために殺されることを意味するのだから。
「お前は、地図を作るだけでよい」
 バキンは、すぐにボージュンの心が分かった。
「その中から、十数カ所、宝を隠す場所を選定し、それぞれに財宝を隠す責任者と地図を描く責任者をつける。そのほとんどがフェイクだ。本物が幾つあり、どこにあるかは私しか知らない」
 つまりはお前を殺す必要はないと、バキンは言っている。ボージュンにもその意味はすぐに察することができた。
「宝とはいったいどのようなものか?」
と、ボージュンは尋ねない。バキンの顔色一つで、想像できたことで十分なのだ。
「はっ!」
 ボージュンは頭を垂れてバキンの部屋を退席した。
 それからのボージュンは、行動が速い。すぐさま、部下四名にそれぞれの任務を与えたのだった。
 四名とは、城の設計でも右腕だったルイジン、情報収集のスペシャリストであるイエンガン、それに建築技師のシーザンと測量のプロであるフージェンのことだ。女性はいない。もちろんイエンガンの部下や仲間には何名もの女性がいるのをボージュンは知っている。が、あえてボージュンからイエンガンの仲間について尋ねることはなかった。ボージュンはイエンガンを信頼している。
 モールト・ド・モートン城を設計したのは、ボージュンがまだ十八才のときだ。本来ならば、王国一の設計師であったボージュンの父、ロウジュンがすべき仕事だった。事実、依頼を受けたのは父ロウジュンだった。しかし、息子ボージュンの才能をいち早く見いだしていたロウジュンは、「最後は私が全て責任を持つから」と、周囲の反対を押し切って、ボージュンに、このモールト・ド・モートン城の設計をやらせたのだった。
 あれから三十年の月日が流れた。今では城下でボージュンに対抗できるほどの頭脳を持つ者はいない。あのバキンですら、頭脳ではボージュンに叶わないと言われるほどだ。事実、この三十年間に、ボージュンがこの四人の部下と共に成し遂げた仕事は、きっと他の者では不可能だったと言ってよい。ボージュンは、この四名の部下と共に、多くの難解な事業にチームを組んで挑んできたのだった。
 キングスタジアムの建設では、極秘裏に地域住民への情報操作を行い、建設の反対派の懐柔に成功した。ナムジンル市場の建設では立退の反対運動を封じ込め、強制退去の陣頭指揮もボージュンがとった。ボージュンからしてみれば、バキンの頭には、まるで嫌な仕事はボージュンにやらせろとインプットされているかと思えるほど難解な事業の連続だったと言える。
ボージュンは、少しずつ増えてきた白髪の一本を抜き取ると、テーブルの上において呪文を唱えた。机上には、この国の地図と水晶玉がおかれている。光り出した彼の白髪を地図の上におき、水晶玉に手をかざした。水晶玉には、燃えさかる町並みが映し出された。モートン王の言うモバイの開発した大量破壊兵器とは如何なものか。それは、ボージュンの魔法の能力を持ってしても見ることはできなかった。
 ボージュンはイエンガンを呼んだ。ナムジンル市場の店や店主が、国の資料と合致しているかを確かめさせるためだ。小さな店同士やならず者たちのいざこざならば、いつでも続いていることだ。だから、全ての店が登記通りであろうはずはない。名ばかりの店や昼夜で違う店になっている場合もある。看板だけで実態のない店や闇取引のブローカーに場所を提供しているところもあるはずだ。それらをしらみつぶしに調べていくことは、地形を測量する以上に大切であり、しかも膨大な手間がかかることだった。
 なぜ、この仕事をイエンガンにやらせたのか。
 その理由は簡単だ。イエンガンが、かつてこのスラム街の王と言われた男だったからに相違ない。今でもスラム街の王に君臨していると言えば、そう言えなくもないほどだ。だがボージュンに出会ってからは、手荒なことはしなくなった。無論今でも、手元には数十名の部下と、数え切れないほどの情報提供者やブローカーがいる。この国で、彼ほど裏の世界に精通している者はいないのだ。この国の情報を一手に握っていると言っても過言ではない。その気になればモールト王国を転覆されることも、モートン王に暗殺者を送り込むことも、彼ならば不可能ではないだろう。だがイエンガンに、そのようなことをする意志はないはない。それはボージュンも知っている。たとえ、どれほどの拷問を受けたとしても、イエンガンならば、誰かに情報を提供することもないだろう。そうボージュンは確信している。それほどまでにボージュンとイエンガンは強い絆で繋がっているのだ。イエンガンにとって、ボージュンは命の恩人ともいえる人物である。いや、命だけではない。彼の人生、そのものの恩人でもあるのだった。
イエンガンは貧しい村の出身だった。腕っ節がめっぽう強かったから、若い頃は、ならず者達のリーダーだった。だから「悪いことをしたことがない」などとは言わない。悪いことばかりしていたと言った方が正しい。ただイエンガンはグループに対し、貧しい者や弱い者を傷つけるような真似はさせなかった。今になるとそれが、彼の自慢となっている。
ボージュンがモールト・ド・モートン城を設計していたころのことだった。ボージュンは城の設計だけでなく、その付近の街作りをも請け負っていたのだ。その中には、イエンガンの住むスラム街の撤去も含まれていたのだった。
 イエンガンが、その街作りに反対するのは当然のなりゆきとも言える。自分たちの住む街が失われようとしていたのだから。
問題は、モバイが、スラム街にスパイを送り込んでいたことだった。スパイは、スラム街のリーダーであるイエンガンを籠絡しようと試みた。決して難しいことではない。打倒モートンでは、利害が一致していたから。
スパイは、都市計画の黒幕がボージュンであることを教え、ボージュンさえ殺してしまえば、スラム街は守られると説いた。無論、そのようなことはあるはずもない。まだ、十八歳の若者だったボージュンにそれほどの権力は当然ない。たとえ、ボージュンが殺されたとしても、代わる者が、スラム街を取り壊すに決まっている。だがモバイから送られたスパイも、さすがはプロだ。あっという間にイエンガンを信じ込ませると、ボージュン暗殺の計画をイエンガンに授けたのだった。このあたり、遣わされたのはおそらく一流のスパイであったのかもしれない。イエンガンはボージュンの予定を入手しただけでなく、軍隊の配置や行動予定、それにボージュンや部下の居所まで、さまざまなデータをスパイから入手することができた。イエンガンは、すぐさま行動を起こした。入念に計画を練り、日時を決めると、スラム街に住む荒くれ者を皆引き連れて、ボージュンの屋敷を襲ったのだった。
イエンガンたちは大声を上げ、屋敷中の家財を投げ飛ばしていった。何人もの荒くれどもが、ボージュンを探す。が、ボージュンどころか、一人の家人の姿も見あたらなかった。きっと恐れをなしてどこかに隠れているに違いない。そう考えたイエンガンは、更に捜索を続けたが、もぬけの殻だった。
計画がボージュンに漏れていたのだ。
ボージュンがいないと気づいてから、反対にイエンガンたちが、モールト王国の軍隊に囲まれていると知るまでに、多くの時間を要さない。
「こうなったら!」
全滅する前に、せめてモートン王に一矢でも報いて死のう。イエンガンは覚悟を決めた。大声を上げてイエンガンの軍団は王国の軍隊に突撃した。が、どれほど腕に自信のあるならず者の集団でも、本物の軍隊に勝てるはずはない。あっという間に捕らえられ、イエンガンは身動き一つできなくなった。
イエンガンの眼前に、ボージュンが現れた。予想していたよりも遙かに若かくイエンガンは狼狽した。利発そうな目は、あまりにも優しく見えたからだった。
 イエンガンは命乞いをした。自分の命ではない。全部自分がしたことだから、自分の命と引き替えに仲間の命を助けてくれと願ったのだ。が、そうはならなかった。
 ボージュンは首をふった。
 そうしてイエンガンは次の瞬間、己の耳を疑った。
ボージュンがイエンガンに求めたのは、命ではなく、対等な話し合いだったのだ。今更、自分を許すはずがないと。そう決めつけていたイエンガンには、次の言葉を続けることができなかった。イエンガンの脳は、まったく理解できない状態のままにボージュンの言葉だけが、流れていった。自分の命を狙った人間の要求に耳を傾けるだけでなく、対等に話し合いで解決しようをいうのだから。イエンガンには、何かの策略だとしか考えることができない。だが、たとえどんな策略であったとしても、ボージュンの意図もメリットも、今のイエンガンには理解できない。とにもかくにも、イエンガンの選択肢はただ一つ。ボージュンの話を聞くということの他にない。
だが、その後に出てきたボージュンの言葉は、イエンガンにも理解できるほど、簡単で明快なものだった。
スラム街を取り壊すのは、モールト・ド・モートン城に近いこの場所が、スパイの根城となる可能性が高いからだ。ボージュンが恐れているのは、まさしくその一点しかない。事実イエンガンにボージュンを襲わせたのもモバイのスパイだった。この場所が重要だからこそ、モバイもイエンガンの籠絡を計って、取り壊しの邪魔をしようとしたのだ。では、なぜモバイがモールト 王国を狙うのか。
 モバイには海がなかった。
 たとえ冬になって氷の大半が、海を閉ざしたとしても、それでもモールト王国には海がある。モールト王国の繁栄が交易に支えられているのに比べ、海のないモバイには大きな産業がなかったのだ。
一昔前ならば、たとえモバイの大地が農業に向く肥沃でないとしても、多くの民は放牧を生業として生活ができていたはずだった。しかし世界の寒冷化が進むにつれて、モバイは第一の産業を、牧畜から軍事産業へと舵を切った。兵器や弾薬の開発はもとより、今では特に諜報員の養成がビジネスとして成功し、大きな産業の柱となりつつあった。
 ボージュンにとって、イエンガンたちを殺してしまうのは、もはや簡単なことだ。だが、ボージュンがイエンガンを殺すとなれば、王国内で新たに恨みを買うことになる。それはつまり、モバイに対して、スパイの根城を造る手伝いをしているのに等しい。つまり、国益を鑑みれば、ボージュンがイエンガンを味方につけた方が、はるかに得策なのだ。
 そこまではイエンガンにも理解の出来る。だが、それでも分からないことがある、なぜボージュンは、ここまでイエンガンを信用するのか。そこがイエンガンには分からなかった。損得の勘定だけのことならば、もちろん理解はできる。が、それには前提が必要だ。イエンガンが信用に値する人間だとだということボージュンがなぜ判断しているのか。ボージュンにとって、イエンガンを信用する理由はないはずに思えた。
「どうして、俺なんだ。またスパイに籠絡されるかもしれないし、そうでなくても、いつ裏切るかも分からないのに?」
イエンガンの問いに、ボージュンは優しい目をしました。
「子供の頃、貴方に助けられたことがあるのですよ。何年も前のことですから、覚えていらっしゃらないと思いますが……。」
 ボージュンは、話を続けた。
「仕事で来ていた父とはぐれて迷子になった私は、チンピラたちに囲まれました。小綺麗な格好をしていたから、すぐ目にとまったのでしょう。その時に、貴方が私を助けてくれたのです」
「あのときの……」
 イエンガンは小さくつぶやいた。
ボージュンの提案は、スラム街を取り壊し、王国一を目指して新しく作るナムジンル市場とその周辺地域の開発を一緒に手伝わないかというものだった。
 もちろんスラム街に住んでいた人々の住宅も、そこに建設して良いという条件がついた。その住居や生活環境を決定する話し合いにも、イエンガンは参加した。教育施設や娯楽場の建設といった要望も直接、国に提案できるようになった。なにより、イエンガンが嬉しかったのは、自分自身で多くのことを学べる環境を、ボージュンが用意してくれたことだった。
 だから今、イエンガンにとって、ナムジンル市場は庭同然の場所だと言える。改めて調べる必要もないほどの情報が、既にある。それをボージュンは分かっていて調べろというのは、つまりスパイが紛れ込んでいないか探れということに他ならない。今回は、それほど重要な任務をボージュンが国王から与えられたのだ。イエンガンはすぐにそう理解した。
 イエンガンは、すぐさま行動に移った。部下を数十名単位で遣わせて、ナンジンル市場を徹底的に調べていったのだった。

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