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おたねさんちの童話集 「山猫のイリー」

山猫のイリー
 
とっても静かな島でした。騒がしいのは海鳥の鳴く声くらいです。水の豊かなこの島は、樹木が生い茂り、多くの生き物にとっては、この上ないくらい素晴らしい環境でした。
 山猫のイリーは、この島で生まれ育ちました。
 小さな頃、イリーは、いつもお母さんのそばを離れることのないほどの甘えん坊でした。お母さんはお母さんで、イリーが少しでも危ない遊びをすると、いつも心配して駆け寄ってきました。イリーはいつも、お行儀のいい遊びしかしませんでした。それに、お母さんと一緒に行ったところしか、一人で出かけるようなこともなかったのでした。
 だから、お母さんが亡くなったとき、イリーは、どうしたらいいか分からなくなって、エンエンとずっと泣き続けました。
 ほんのちょっとしたことだったのです。お母さんの後ろをついていたとき、東の崖の向こうに初めてみる景色が広がっていたのです。
海でした。
 その景色があまりに美しかったものですから、イリーは、お母さんから離れて、崖の方へ近づきました。そこに大きな蛇がいたことも知らないで。
本当は、あっという間の出来事だったのかも知れません。でもイリーにとって、それは非常に長い時間でした。イリーを助けようとして、お母さんが大きな蛇と格闘したのでした。お母さんは蛇を追い払うことはできましたが、大きな傷を負ったのでした。それでも、数日間、お母さんはイリーのために獲物を捕まえようと必死で努力をしましたが、その体では無理だったようです。出血があまりに酷かったので、なかなか食べ物にもありつけませんでした。ですから、お母さんが亡くなるまでに、それほど沢山の時間は必要なかったのでした。
 イリーはずっと泣いていましたが、あまりにお腹がすいたので、だんだんと泣き続ける元気もなくなりました。そんなとき、たまたま目の前を一匹のネズミが横切りました。きっとイリーが余りにも弱っていなので、油断して出てきたのでしょう。
それは、もう本能としか言えません。なにせイリーはまったく意識がなかったのですから。気がついたら、そのネズミは、イリーの口の中に入っていたのでした。
 その日から、イリーは無我夢中で生きてきました。獲物のとらえ方も、自分で覚えました。島の地形も、完全に頭に入っています。敵と味方も、一瞬にして理解できます。
 ……あの、人間がやってくるまでは。
 初めて人間を見たとき、イリーは、敵なのか、自分とは無関係な生き物なのか迷いました。エサにするには大きすぎます。足は速そうにありませんでしたが、モノをつかむのが上手そうです。そうして体中に見たこともないものを沢山身につけていました。イリーの姿を見ても逃げようとしません。こんな生き物は初めてです。イリーはだんだん恐ろしくなってきました。なにせ、不思議な魔法を沢山つかうのですから。
 手元から炎を出したり、口から煙をはいたりするだけではありません。夜になっても、暗くならない道具を取り出したり、信じられないくらい大きな音を出したりするのです。
 イリーは恐ろしくて逃げ出したいと思うのですが、どうしても、人間のことが気になって仕方がありません。できるかぎり気づかれないように、遠い場所から観察することにしました。もちろん、いつでも逃げられるように、観察する場所を選び、細心の注意を払って観察するのです。
 人間の観察は、それほど難しいものではありませんでした。ときどき、気づかれたと思うことはありましたが、人間がイリーを襲うようなことがなかったからです。それに怖がって逃げていくこともありませんでした。
人間は、三角形のへんてこな巣の中で暮らしていました。本当に、観察すればするほど変な生き物でした。
まず、決して他の生き物を襲わないのです。彼らは、いつもその三角形の巣の中から、魔法のように食料を取り出して、それを口に入れていました。
魔法は、食料を取り出すだけではありません。炎を操って、食料を加熱するのです。イリーは今まで、そんな食べ方をしたことがありませんでした。食べ物というのは、捕まえた小動物をそのままガブリと頂くほかは、方法がないものと思っていたのです。
ほかにも変なことがありました。人間は一人で、三角形の巣に住んでいるはずなのに、時々、話し声が聞こえるのです。しかも、泣き声や笑い声が聞こえることもあるのです。気持ち悪いとは思いませんか。たった一人で暮らしているのに、話し声が聞こえるのですよ。しかも、一人で淋しく泣いているのならば、理解できますが、ときどき大きな笑い声まで聞こえるのですから。もう人間を理解することなんて、不可能に違いありません。イリーは頭を抱えていまいました。
 ある日、イリーは思い切って、人間の住む三角形の巣に潜入しました。もちろん、人間が出かけたことを確認した後のことです。
イリーはビックリしました。巣の中が、とても明るいのです。そして、真ん中の四角い箱を見たときには、もっと驚きました。自分と同じ山猫がいるのです。とても小さい山猫です。イリーは、驚いて声をかけました。でも、その山猫はうんともすんとも言いません。イリーは、その山猫に触ろうとしました。でも、どうやらガラスのようなものに遮られて、触ることはできませんでした。
「お母さん!お母さん!」
いつの間にか、イリーは泣きながら、大声でそう叫んでいました。イリーは自分でも不思議でした。小さな箱の中に入っている、小さな山猫がお母さんであるはずがありません。でも、その姿は、幼い頃にみた、お母さんの姿に、そっくりだったのです。
「お母さん!お母さん!」
イリーがどれほど叫んでも、箱の中の山猫はまったくイリーに気がつきません。
イリーは、今度はこの山猫を箱から逃がそうとしました。両手で箱を抱え込んで、ガリガリと牙で箱を無理矢理開けようとしたのでした。
「パチン!」
大きな音と共に火花が散りました。イリーは慌てて逃げました。そして再び戻ってきて、箱を見ました。もう箱に中には何もいませんでした。
イリーは、人間の巣から這い出ると、トボトボと歩き出しました。
悲しくて、とても悲しくてワンワンと泣きました。いったい、どうしてこれほどまでに悲しいのか、自分でもわかりません。でも、どうしても悲しくてワンワンと泣きました。あまりにも悲しかったので、自分が怪我をしたことも、気がついたのは、ずいぶん時間が経ってからのことでした。
あまりに慌てて逃げ出したものですから、後ろ脚を、どこかにぶつけたようなのでした。
走ると、ズキズキと痛むので、イリーは、それからしばらく、片方の後ろ脚を引きずって生活をしていました。
でも、片方の脚を庇って走るのは、どうも難しく、なかなか上手に獲物が捕まえられなくなってしまいました。
イリーが人間に捕らえられたのは、それから間もなくのことでした。人間は、イリーの怪我した部分を、水であらうと、なにやらヘンテコなものを塗りました。それから、痛む部分を木で固定して、白い布でグルグル巻きにしました。
「ちゃんと怪我が治ったら、放してやるからな」
そういうと、人間は食べ物をくれました。
初めて食べるものですから、最初は口にしてもいいのかと悩みましたが、空腹には勝てません。思い切ってかぶりつくと、今まで食べたこともないような美味しさです。イリーは無我夢中で、それを胃袋へと押し込んでいきました。
イリーの怪我が治るまでに、それほど多くの時間はかかりませんでした。人間があまりに優しかったので、イリーは驚きましたが,決して人間たちになれることはありませんでした。いくら優しくしてもらっているとはいえ、隙を見せるのはやはり、まだ恐ろしかったのです。でも、人間たちは、そんなイリーのことなどお構いなしに、怪我が治ると、またイリーを元通り逃がしてくれました。ただ。腕にへんてこな輪っかをつけられましたが、走るのには邪魔にならないので、イリーはそれほど気にしませんでした。
 やがて、イリーの前から、人間たちは姿を消しました。そして、イリーと同じように腕にへんてこな輪っかをつけられた、山猫がイリーの前に現れたのは、それから間もなくのことでした。おしまい。

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