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演技力

2022.03.30

桜を愛でる

きょうは、散歩がてら近くの川沿いに咲いている桜を愛でてきた。

秦野は桜推しなのだ。明日はいわのおしっこを病院に届けに行くついでにはだの桜みちを自転車で走ってこようかな。

きのう作った短歌の話

きのう、やいのやいのと推敲をして、この形になっていた短歌。

《さくら咲く時期だけわかる 都心より五日間ぶん寒いこの街》

「この街」で終わるのが、なんとなく……短歌っぽくて(?)イヤだな……と思っていて、いまは結局下記でいいのでは、と思っている。

《さくら咲く時期だけわかる この街は東京よりも九日寒い》

つまり言いたいことは「この時期の日にちは『温度』の単位だ」みたいなことなので、より直接的に「九日寒い」にしてみた。ただ、少し親切じゃなくなっている分、読んだ人を置いていかないかどうかが、微妙なラインかも。

きょう作った短歌

《秒針が年々早く刻まれる壊れた時計のような光陰》

これも体言止めで終わっていて短歌っぽい。
それらしく作っているけど「時間」を「時計」で比喩するというのが、バカバカしくて、でも実感も込められている短歌。

もうひとつ。

《春眠がまた暁を覚えてて僕を落胆させる毎日》

これも体言止めだ。
気持ちよく眠って、そのまま起きないのが一番いい死に方なのでは、と思っていて、そういう「死にたい」短歌。
「春眠」の擬人化。「覚える」という言葉の意味が少しねじれて(?)いる気がする。
この短歌は伝わるのかな……。

朗読

ラジオで自作の短歌を朗読してもらったことがある。
「57577」の切れ目ではなく、意味の切れ目ですごく自然に、とてもエモーショナルに読んでもらえて感動した。僕も、自作を披露するときはあの読み方で読みたい、と思うのだけれど、できない。
なぜできないのか、わからないのだけれど、できない。
あれはつまり「演技力」が必要なのでは、というところに今は落ち着いている。「意味の切れ目で読む」こと自体、もう「演技」なのだと思う。
記念撮影で自然に笑えるのと同じ力である気がする。
それが全然足りないから、うまく読めないのだ。たぶん。
「演技力」と書くと、なんというかネガティブに聞こえたり、揶揄しているように聞こえるかも知れないけれど、全然そんなんじゃなくて、演技する力って、生きていく上でめちゃくちゃ必要な能力だと思っている。
そして、その能力が著しく低い自分がはがゆい。

そう言えば、7年前のちょうど今頃、ポッドキャスト「僕たちだけがおもしろい」の企画で、ベトナム旅行に自撮り棒(って今でもあるの?)を持参して、自撮りの練習をしていた。うまく笑うのって、本当に難しい。


そんなそんな。