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作風

2023.06.26

きょう観たドラマ

「だが、情熱はある」の最終回を視聴。最後までだれずに(……というか、導入が一番心もとなかった)素晴らしかった。クリーピーナッツのくだりが泣けた。

全然関係ないけど「クリーピーナッツ」って、ずっと「クリーピー/ナッツ」だと思って、そう発音してたけど、ドラマを観て初めてそれは間違いで「クリー/ピーナッツ」と発音することに気づいた。

リプのハードル

書名も著者名もテキストにはないんだけど、「幸せは前借り」という文字列を検索ワードに入れているので、見つけられたうれしい感想ツイート。エゴサーチが過ぎるので、気味悪がられそう、と躊躇したけれど、自分ルールでお礼をちゃんと伝えることにしているので、伝えました。
「短歌集は初めて」というかたが、割と多くて、うれしい。
ありがとうございました。

短歌研究ふたたび

(前略)短歌に対する呪術的な信仰がみられないという印象を受けた。歌人として長く歌を作っていると、絶対的な美が凝縮された「究極の一首」を信じながら、そのイデアを追求するような感覚が生じてくる。しかし仁尾智の猫短歌は「究極の一首」のような観念から自由になっている。

「短歌研究」7月号「猫と野球、まなざしと時間」より引用

先日の日記で「短歌研究」7月号の山田航さんの評から引用したこの部分、そういえば、なんか同じように評されたことがある、と思い当たった。

詩の言葉から、極限性や苦心の跡、いわば「凄味」を抜き続けるたぐいの推敲を、普通は十年以上も徹底できない。
凄まないこと、おそれられないこと、凄いと思われなくてもいいと覚悟することは、あまりにも寂しい。それなのに。

この中本速さんの評と、割と同じことを言っているのではないか。違う?

たぶんだけど、僕が短歌を作り始めたのが、もう若くはない30代なかばであったこと、そしていま50代なかばであることなんかが関係しているのではないだろうか。

もっと若かったら、もう少し「凄い」とか「絶対的な美」のほうのベクトルに舵を切ることも考えたであろう。

実際、初期の短歌は割と「凄いと思われたそう」なのが多い。

  • スピンする車の中で微笑んだ君をみた夜から会ってない

  • 野球、嘘、捨てゼリフ、駄々、体位、UNO 全部ひとりの部屋で覚えた

  • どうしても結婚指輪が抜けなくて最後の手段を考えている

とかね。

どこかで、そういうのが自分に似つかわしくないことに気づいたんだと思う。

あと「どこで戦うか」みたいなことも影響しそう。
どこかの短歌の賞を狙おうとすると、その短歌の賞を取れそうな作風にベクトルが向くだろうし。

結局、「かんたん短歌」のルール以外にどこにも属したり、賞を狙ったりしないまま(外的な要請がほとんどないまま)年月が経って、「いい短歌とは」という自問自答の中で、こういう作風になった、ということである気がしている。

そんなそんな。