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並走感

2023.06.28

きょうは、暑い。
さすがに暑かったので、猫がいるリビングルームは今季初のエアコン稼働となった。

暑いのも嫌いだけれど、エアコンの涼しさも嫌い、という猫もいて、なかなか厄介である。

他の部屋のエアコンのフィルターの掃除などをした。

挽歌集という言葉

年内刊行予定の『また猫と』。副題に「猫の挽歌集」と付けようか、それとももう少し詳しく内容を説明するような副題にしたほうがいいのか、迷っている。

タイトルは『また猫と』に決まりそう。これだけだとなんの本かわからないので、副題は付けるんだけど。

タイトルで読者を狭めたくないな……という思いがあって、それは『これから猫を飼う人に伝えたい11のこと』(辰巳出版)は、実際は「これから猫を飼う人」じゃなくても、楽しく読める本なのに、入口を少し狭めてしまったかな……という反省(?)がある。
反省というと、別の選択肢があったかのようだけれど、僕は割と頑固に「このタイトルで出したい」(私家版のタイトルを踏襲したい)と思っていたので、別に後悔とかはあまりない。

「挽歌集」という言葉が、一般にわかりにくい(短歌集であることすら伝わらない)のは承知の上で、付けたほうがいいのでは、とも思っている。オビとかに説明を入れたりするといいのではないだろうか。むしろ「へえ、そういうのを『挽歌』って言うのか……」と、この歌集で覚えてもらえれば、いまAmazonで調べても「挽歌集」とタイトルに入っている書籍はわずかだから、むしろ悪くないのでは、と思えたりもする。

「猫を悼む短歌集」とか「見送った猫たちへの短歌集」とか少し言い換える手もあるけど、ちょっとずれるんだよな……。確かに、猫の死を悼んではいるし、猫たちへの短歌もあるにはあるんだけど、どちらかと言うと「見送った僕側の短歌集」なんだ。そして本は、明確に猫に向けて、ではなくて、ひとに向けて作られている。過去に見送ったり、自責を抱えていたり、いまやこの先が不安だったりするひとに向けて作るのだ。そして「死を悼む」というよりは「前を向くための短歌集」なんだ。
その辺が難しい。「猫の挽歌集」としたって「猫の死を悼む短歌集」という意味だから、厳密には同じようにずれているんだけど、言葉の端的さも相まって、なんか「嘘はついていない」ような気持ちになれる。

「猫の看取りの短歌集」とかだと、なんか「ハウツー本」みたいな印象も出てきてしまう気がする。

ずっとぼんやり考えているけれど、ずっと決まらない。

ドラえもん短歌

3刷でオビに拙作を使っていただけたので、見本誌が送られてきました。重版おめでとうございます!
写真光って見えない。

読んだあと懐かしくなる『ドラえもん』自体がタイムマシンってことか

結句を「タイム/マシンみたいだ」とかにすれば定型に収まるんだけど、それは嫌だったんだね、たぶん。
「ってことか」とすることで、読者と一緒に気づく、並走感みたいな効果があるような気がする。そんで、その効果は定型を逸脱してまでやりたいことかどうかを自問して、採用、ってなったんだと思う。

作ったときのことは全然記憶にないから、他人の目で読めるね。

そんなそんな。