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苦しくなんかない / #2000字のホラー

私は心の奥底の、本当の自分を人に晒したことはない。

何故かって?そんなの決まってる。拒否られるのが分かってるから。

だったら人に共感を持たれるような言葉で自分を着飾っておけばいいじゃない。

いや、それは本意じゃない。そんなことするぐらいなら誰とも関わらず、交わらずに一人っきりの人生を歩んでればいいんだから。

でもそんなことはできるわけがないじゃない。この社会で人と一切関わらずに人生を全うすることなど、できるわけがない。

だからちようどいい具合の境界線を自分で見つけて、その線スレスレのところをうまく泳いで、人の目を欺きながら泳ぎ切ることだけに神経を集中させればよいのだ。

でもね、人は時として自分の本当の心の中を、叫びたくなることがあるの。それが絶対に踏んではならない地雷であったとしても。どうしても踏まずにはいられなくなる時がある。自分自身のために。


「美波さん」

同じ課の野口洋二が私の名を他人行儀に苗字で呼ぶ。

昨晩私がプレゼントしたレジメンタルのネクタイがとてもよく似合っている。あなたの肩越しに、あなたのことを熱い眼差しで見つめる早苗の視線が私を突き刺す。そう、新しい恋人ってあの子なのね。私より10も若い小娘じゃないの。

「美波さん、ちょっと」

「さん」なんてつけないでよ。いつもベッドで呼ぶ呼び方でここで呼んでみてよ。できるものならね。どうせできっこないでしょうけれど。

「はい、課長、なんでしょう」

私は冷静に答える。

「午後の会議に間に合うように、この資料を人数分作って会議室にセッティングしておいてくれるかな」

よくそんなに冷静でいられるわね。昨夜の突然の別れ話を私が大人しく受け入れたとでも思っているの?

無性に腹が立つ。なにも言わなかったのは納得したからじゃないわよ。よくも私を裏切ったわね。あなたは私の貴重なこの10年を奪っておいて、そんな涼しげな顔で何事もなく、これまでと同じようにここでやっていけるとでも思っているの?冗談じゃない。おかしくて涙も出ない。会議の資料?そんなもの知ったことじゃない。白紙で作ってやる。


「・・・」

「美波さん?」

「・・・」

「これ、会議室に」

「イヤです」

「 なんだって?」

「イヤだって言ったんですよ」

「なに?どういうこと?」

「だから、そんな仕事を私にさせないでください。早苗さんにでも頼んだらどうですか?」

「そんな仕事って、どういうこと?会議に使う大事な資料だよ。“そんな仕事“ なんて軽く考えてもらっちゃ困るな」

「課長。その前に。私のこともそんなに軽く考えてもらっちゃ困るんですよ」

「なに?君、なにを言っているんだい?」

「なにを言ってるのか、ここで言ってもいいんですか?」

「・・・え?」

「昨夜の約束、忘れたなんて言わせないわよ」

「・・・」

「いつ紹介してくれるんですか?あなたの家族に。私が新しいパートナーだって。この人と人生をやり直すことに決めたからって」

「・・・な、なにを言ってるの、君」

「やだわ。君だなんて。いつも呼んでるように『奈々恵』って呼んでよ」

「・・・」


いつもクールでスマートで、一度だって人前で取り乱したことのないあなた。その綺麗な顔の仮面を剥がしてやりたかった。どうせ別れるなら。めちゃくちゃにしてやりたかった。私一人が泣くなんて、絶対にイヤだ。あなたも同じように苦しむべきなのよ。そうでないと私のこの苦しみを成仏させることなどできない。

苦しくなんかない。そんなの幻想だ。私はあなたに裏切られたんじゃない。私は私を裏切りたくはない。だからあなたを裏切るの。私が本当に大切で、愛しているのは私自身だけだから。あなたじゃないのよ。それを分からせたかったの。

一人で生きていくことなんて簡単よ。私は誰のことも信用などしていない。私は私しか信用していないの。それをあなたに分からせてからでないと、前に進めない。ごめんなさいね。でも、諦めてね。私は私しか愛せない人間なの。

さようなら。


「美波さん、ちょっと」

「はい課長、なんでしょうか」

「午後の会議に間に合うように、この資料を人数分作って会議室にセッティングしておいてくれるかな」

「承知しました」

「ありがとう、頼むね」

にっこり笑ってあなたから会議の資料を受け取る。

頭の中の妄想をいつ実現してやろうか。

その時のあなたの顔を想像しながら、私は自分のデスクに戻る。

いつだって、どんな時だって、私は私の意思で自分の人生の主導権を握っている。自分の人生の舵を取るのは私自身。あなたじゃない。

そう思うことで今日もなんとか生き延びる。

この会議の資料を用意したら、もうここでの私の仕事は全て終わる。

これが最後よ。あなたのワガママを聞いてあげるのは。

そんな涼しい顔をしていられるのもあと数分よ。


次の会議の資料は誰に頼むのかしらね。

苦しくなんかない。

さようなら。


#2000字のホラー #小編小説 #男と女 #幻想 #裏切り #自己愛



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