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父と京都

3月に89才で亡くなった父は、京都が大好きだった。

それは父が京都の立命館大学出身で、アパートに一人暮らしをしながら青春を過ごした特別な場所だったからに違いない。

京都出身の作家 水上 勉を愛読し、地図が大好きだった父の脳内には京都の碁盤の目のような地理が全てコピーされたように詰まっていた。

私も若い頃、2度目の結婚をしてすぐの頃に娘が幼稚園の2年間、京都の桂というところに住んでいたことがある。大阪の梅田駅から京都の河原町駅までの阪急京都線、嵐山への分岐点でもある。有名な桂離宮のある、桂駅前のマンションに住んでいた。

しかしその頃の私には京都の素晴らしさを実感し満喫するにはちょっと忙しすぎたし情緒もなかった。今となってはなんだかとても勿体ないことをしたような気がする。住んでいたマンションの近くの割烹に時々家族で晩御飯を食べに行ったのは良い思い出として残っている程度。あの加茂那須の田楽は最高に美味しかったなぁ…遠い記憶。

そんな私にとっても少し思い入れのある京都ではあるが、父にとってのそれとは雲泥の差だろう。父は本当に京都が好きだった。いや、京都を愛していたと思う。母や子供である私たち家族にはあまり詳しく話してくれたことはなかったが、それは父が自分だけの大切な思い出を胸のうちに秘めて大切にしていたからだろう。結婚して家族を持ってからは、やはり妻や子供たちを養わなければならないという義務感から現実の世界に生きなければならい実態と、美しく楽しい青春の思い出がたっぷり詰まった京都とを意識的に切り離していたのではないかと思われる。だからあえてあまり私たち家族には京都の話はしなかった。きっと父の特別な思いと共に俗世間から離れた心の小部屋に永久保存されていたに違いない。

一度、父は年を取ってから思い出の地へ母を連れていったことがある。

鴨川沿いにある料亭。外の景色を眺めながら座敷の個室で味わう美しい京料理のコースは、一品一品がまるで芸術品のように上品で美しい。美酒と共に心置きなく堪能した父に対し、母の感想は非常に辛辣なものだった。あとでその感想を聞いたが「全然お腹いっぱいにならないし。ちょーーーっとずつしか入ってないし。あんなもんで一人1万円なんてめちゃくちゃ勿体ない!二度と行かないわ。」という身も蓋もないものだった。

それを聞いた父はただ「ふふっ」と笑って何も言わなかった。きっと母との価値観の差に諦めにも似た落胆と、自分の中にある大切な「京都」を分かち合うには余りにも相手がリアルの世界過ぎて興醒めしたのかもしれない。その本心を父から実際に聞いたわけではないので何とも言えないが、「連れていく相手を間違えた」といった具合だったのかもしれない。

私は家計を預かる主婦として節約しながら完璧にやりくりしていた母の意見や感想も分からないではないし、自分の大好きな世界を少しでも味わってもらいたかったけどちっとも伝わらなかった残念な気持ちを言葉にすらできないでいた父の気持ちもとてもよく分かる。それぞれが持つそれぞれの思いと価値観の違いは致し方ないのだろうと。夫婦といえども元は他人だし生まれも育ちの環境も違う。当たり前だしそれをどうこう言うのはせんないことだ。

それから以後、父は母を京都に連れていくことはなかったと思う。時々一人でふらりと出掛けていたようだが、それさえも家族の誰にも話もせず、一人でひっそりと楽しんでいたようだ。今となっては一度でも良いから父の好きだった京都の思い出の場所に連れていってもらいたかったなと少し寂しく感じる。

いや、それはそれでいいのかもしれない。父はきっと自分だけの大切な京都を自分一人で満喫し、誰にも文句を言われずにただ楽しむことに心から幸せを感じていたのではないかと思う。そうであればいいな、とも思う。

家族のために働き続けた勤勉な父。あまり沢山話した記憶はなかったけれど、私が東京に住んで離婚したあとは時々実家の大阪の父の部屋からこっそりと電話をかけてきてくれた。いつでも私と娘や息子を心配し、「元気でな、身体気ぃつけてな。」と言葉をかけてくれた。

先日、四十九日法要を終えて極楽浄土へ旅立った父。あの世でもきっと京都の地図を広げて、次はどこへ訪れようかと計画を立てながら大好きだった「いいちこのお湯割り」を楽しんでいることだろう。どうか思う存分お父さんの大切な京都を楽しんでくださいね、と西南の方角を向いて手を合わせた。

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