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Cafe SARI. 17 / 幸せのスケール

いつしか季節は移ろい、街ゆく人たちのファッションと頬に冷たい北風が本格的な冬の訪れを感じさせる。
沙璃は2年前に手に入れたものの、着る機会を逃してお蔵入りになっていたムートンのコートをクローゼットから出してみた。
昔のいわゆるゴージャスな毛皮のコートと違って、とても軽くてカジュアルなパッチワークのムートンは、その柔らかな色合いがとても気に入って一目惚れで買ったものだ。少々高かったけれど、数年間新しいコートを買っていなかったことと、離婚してから初めて、11月の誕生日にこれまで頑張った自分に贈るプレゼントとして思い切って購入したものだった。

今年の冬はここ数年続いている暖冬と違って、厳しい寒さの予測が出ているらしい。今年こそこれを着てどこか晴れやかな場所に出かけようと心が浮き立つ。しかしながら、いざこれから年末にかけて行われるクリスマスコンサートやイベントの情報を調べてはみたが、なぜか心惹かれるものはないのだった。

毎日店を開けているとたくさんの人たちがやって来る。一期一会といえどもその場所で交わされる言葉は沙璃にとって魔法のような心の充実をもたらした。
その場にいるだけで満たされていることが実感できる。もうこれ以上他に何もいらないなと思える。自分の中にある「幸せのスケール」が以前とは全く違っていることに自分でも少し驚くのだった。

もしかしたら今年もこの、自分にとっては特別なコートを着る機会はないかもしれないな。そう思いながら沙璃はいつものウールのコートに袖を通した。

冷たい北風を頬に感じるようになると、心は温かいものを欲するのは人の常。沙璃は11月に入ると毎年店の中の色合いを少しだけ変えている。ダウンライトの照明を間引いて間接照明の暖色の光を増やし、アレンジメントの花もワインカラーや濃いグリーンなど深い色合いを選んで飾る。窓際のシェードを低めに下ろして、テーブルとカウンターには小さなグラスに入ったキャンドルを灯す。
香りも重要だ。料理やお酒を楽しむのに邪魔にならない程度に、入口とレストルームに冬の香りを忍ばせる。リラックスするラベンダーやゼラニウムをベースに、甘く温かな気持ちになるようにバニラやアンバーを少しブレンドして。それだけのことだけれど、外から入ってきたときのお客たちの顔がホッとするのが分かるのだ。その顔を見るだけで沙璃は心が安まり、嬉しい気持ちになるのだった。

今夜は牛ほほ肉の赤ワイン煮込みにしよう。赤ワインをたっぷり使って、身も心も温まるように、時間をかけて丁寧に仕込んでいく。ゆったりとしたひとときにはビルのピアノが一層しっくりくる。お気に入りのナンバーが耳に心地よい。

にんじん、セロリ、玉ねぎ、ニンニクをオリーブオイルでじっくりと炒める。塩胡椒して表面に焼き色がつくまでソテーしたほほ肉とたっぷりの赤ワイン、炒めた野菜を合わせて入れた鍋にベイリーフやタイムなどのハーブを入れ、灰汁を取りながらじっくりと煮込む。ほほ肉が口の中でホロホロと解れるのがこの料理の醍醐味だ。これにフルボディの赤ワインを合わせて薦めよう。

この季節になるとCafe SARI のオープンの時間には外はすっかり暗くなっている。キャンドルにひとつひとつ灯りをつけていると一人目のお客がドアを開けた。

「沙璃さん、こんばんは!あぁ、この中はあったかい〜〜」
「いらっしゃい。千花ちゃん、寒かったでしょう?」

現れたのは今年の春からフリーカメラマンになった真田千花だ。
5年間のアシスタントを経てようやく独り立ちしたが、生活を立てるにはまだまだ厳しい状況が続いているようだ。それでも彼女の生き生きとした元気な顔を見ていると、その充実した毎日が垣間見えるようで沙璃は心が和んだ。

「今日は撮影だったの?」
「そう。お友達にオファーをいただいてね。結婚記念のフォトブックの撮影してきたの。すっごくいいのが撮れたのよ。自分でもとても満足できたわ」
「それはよかったわね、いい仕事ができて。結婚記念なんて、一生残る大切な瞬間だものね」

千花は満足そうに微笑んでカウンターの席に腰を下ろした。
「あれ?今夜はまだ誰も来てないの?」
「そうよ、千花ちゃんが一番乗りよ」
「ふうん、そっか・・・」

千花の怪訝そうな顔を見て沙璃は少し不思議に思ったが、気を取り直すように千花がビールを注文してその場は過ぎた。
そう言えば去年の今頃は千花の独立にあたって、かなりの時間相談に乗ったものだ。一人で悩み続けて煮詰まると、千花はいつもここへやってきては姉のように慕う沙璃に話を聞いてもらうのがルーティンになっていた。一通り悩みを吐き出すとスッキリして帰っていく。そんな時、沙璃はただ千花の話を受け止めるだけに専念した。必ず答えは自分で出せる人だとわかっていたからだ。まだ30になったばかりで若いけれど、千花は芯の強い、志の高い女性だと常日頃から沙璃は感じていた。
案の定、行動を起こしてからの千花はそれまで以上に伸びやかで能動的になった。そのことを沙璃が言葉にして褒めると、千花はますます自信を持って仕事に打ち込んだ。人生は案ずるより生むが易しよねと、今ではあの頃の迷っていた自分を笑い飛ばすまでに逞しく成長している。

仕事の疲れを癒すように、千花はビールを飲みながらしばらく二人で今日の撮影の話をしていると、千花の背後のドアが静かに開いた。

「こんばんは…… あ、千花ちゃん来てるね」

顔を見せたのは雨男の河原直哉だ。直哉は沙璃とともにここで千花の相談事を受けることが多い。千花にとってのメンターのような存在だ。

「直哉さん、遅いよ。もう3杯もビール飲んじゃったよ」
千花が直哉に文句を言っているのを聞いて、沙璃は二人がここで落ち合う約束をしていたのだと気づいた。

「直哉さん、いらっしゃい。千花ちゃんお待ちかねよ」
「あぁ、なんだかまたお悩み相談を持ちかけられちゃってね」

直哉と千花が目配せをしている。深刻な相談事だろうか?沙璃は少しいつもと違う二人の様子を伺いながら、いい塩梅に煮込まれたほほ肉の赤ワイン煮をココットに入れて、スペインのテンプラニーリョと共に二人にサーブした。

「おぉ、これはうまそうだ!俺、腹ペコなんだよね」
「わぁい!私も食べるぅ〜」

二人は料理とワインに舌鼓を打ちながら、お互いの近況や最近観た映画の話や年末の予定など、屈託ない会話を楽しんでいる。
そうか、単に楽しい時間をここで過ごそうと二人して来てくれたのかと、沙璃は気を回しすぎる自分に可笑しくなってしまった。
ただ共に楽しむだけの時間と空間。Cafe SARI がそんな風にここに来る人たちに愛されていること、生活の中に自然に溶け込んでいることに嬉しさが増してゆくのを感じる。

「ねぇ、お二人さん。シャンパーニュ開けよっか。三人で飲まない?」
沙璃はとっておきの一本を奥のワインセラーから取ってきて二人に見せた。

「ワオ!それはいいね。でも、もうちょっと後で。ね、千花ちゃん」
直哉と千花がまた何かアイコンタクトを取っている。なんなの?沙璃は二人のおかしな態度を怪訝に思いながら、せっかく持ってきたシャンパーニュのボトルに視線を落とした。

その時、バタンと勢いよくドアが開いたかと思うと、次々と知った顔が店に流れ込んできて、沙璃は思わず悲鳴のような変な声が出た。

「ごめんごめん!遅くなりました!残業が長引いちゃって、駅から走ってきたよ。そしたら店の前でみんな待っててくれて。あ!千花ちゃんと直哉さん、もう言っちゃったの?ズルいよぉ」

現れたのは遅刻してきたと息を上げている常連の佐伯信也田代洋子吉田幸希園田麻里子横山奈緒子前谷皐月、そして最近よく来てくれる神谷拓海だった。みんなこの店で知り合い、ここで会うと杯を交わす気の置けない仲間たちだ。
何が起こったのかワケが分からず、沙璃は呆然と目の前に並んだ顔を見つめて立ち尽くした。

「まだ言ってませんよ。こうして千花ちゃんと二人して、飲みたいシャンパーニュも我慢して皆さんを待ってたんですから」
直哉がようやく今夜の目的を話し始めた。
「今夜はみんなで沙璃さんを祝おうと思ってね。僕が声をかけたんですよ。ほら、もうすぐ沙璃さんお誕生日でしょ?いつもここで楽しませてもらっているメンバーで、一緒に乾杯したくってね」

「沙璃さん、もうすぐお誕生日おめでとう!」
「沙璃さん、いつもありがとう!」
「沙璃さん、お疲れ様っす!」
「沙璃さん、美味しいご飯、いつもありがとう!」

集まった皆が口々にお祝いの言葉を述べると、いつものように席に座っていつものCafe SARI に戻った。沙璃は驚きと戸惑いと嬉しさとでしばらく言葉も出ない。そしてようやく我にかえり、手に持ったままのシャンパーニュを見つめた。

「あの、あの、皆さんありがとう。えっと、その……」

「沙璃さん、シャンパーニュ、開けましょう!」
直哉が沙璃の手からボトルを受け取り、軽やかな手つきで勢いよく栓を抜いた。

ポーーーーーン!!!

「沙璃さん、ハッピーバースデー!!!」

拍手の渦の中、沙璃はただただ、幸せと安堵感を噛み締めていた。
あぁ、頑張ってきてよかったな。わたしが選んだ道は間違ってなかったな。
そして溢れ出る感謝の気持ちに思わず手を合わせていた。心の中でありがとうを何度も何度も繰り返しながら。

特別なことなんて何もいらない。こうして毎日が特別だってことに気づいたから。わたしはこれからも、特別な毎日を積み重ねてゆく。
ここにいるみんなと共に。そしてこれから来てくれる新しく出会う人たちと共に。

今日もCafe SARI に来てくれてありがとうございます。
これからもここであなたをお待ちしています。
特別な一日のために。

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