夏の終わりに
何年か前の夏。ある人と出会った。
しばらく恋を封印していた私の目の前に突然現れて、私を夢中にさせた人。
彼は自分のことをたくさん話してくれた。いつも恋愛がうまく続かないと言った。
まるで人生相談のような、色気のないやりとり。年が10も下なんだから当たり前か。いや、そんなこと微塵も感じさせない会話に彼の真っ直ぐな人柄と男を感じた。
二度目のデート。何となく期待してはいたけれど、女が自分から関係を進めたい素振りをするなんて、はしたない。今夜も楽しく飲んで会話して、次への期待を持ちつ持たれつかな?なんて思いながら二軒目の店を出た。
「どうする?」
「どうしよっか」
二人ともいい塩梅に酔いが回ってきた頃。まだ終電までは時間がある。
道玄坂をゆっくりと歩く。
二人の歩調はお互いの心を探り合うように一歩一歩、確かめるようにゆっくり進む。
近付いたり離れたりする彼の肩が時々ぶつかる。
リズムが合わなくてイラつく私はグイっと彼の腕に抱きついた。
少し戸惑うように私を見つめる。
あら、いやなの?
彼は私の腕を振り解いて指をからめるように手を繋いだ。
ふ〜〜ん、こんなふうにして歩くのが好きなんだ。
彼のことをまだ何にも知らない。
歩くときは右側で、指を絡めて繋ぐのが好き。一つ収穫。
「この辺にいい店あるかな?」
「知らなーい」
こんなふうに手を繋いでいい感じに酔ったまましばらく歩きたい。
そう思っていたら小さな看板が目に入った。
灯がついていたので吸い込まれるように入った。
カウンターに寄り添うようにして座る。
饒舌なマスターに勧められて飲んだのは、特別珍しいヘビーなダークラムだった。
ラムといえば普段私はホワイトラムで作るモヒートぐらいしか飲まないし、カクテルもロングしか飲まない。こんなに強いのは飲めないんじゃないかと思った。
マスターは2種類のダークラムを、私と彼にそれぞれ作ってくれた。
一つはウイスキーをストレートでやるものより一回り大きめのショットグラスで。クラッシュアイスを満タンに入れたところにダークラムを注いだもの。
一つは薄いクリスタルのコニャックグラスに半分ほどミネラルウォーターを入れ、そこへそ〜〜っとダークラムを注ぐと綺麗にパキッと二層に分かれた。
初めて体験するお酒はまだ見ぬ世界の扉を開ける高揚感でワクワクする。
ましてやそれが今後の成り行きを期待する男と二人で味わうなんて、こんな楽しみは人生で何度も与えられるものじゃない。
一口含んでゴクンと飲み込む。
熱い刺激が喉を焼く。思わず彼の顔を見て無言で訴えた。
「 つよーい!…。でも、美味しいね 」
「 大丈夫? 」
「 うん、全部は無理だと思うけど 」
カラメルのような甘い香りに騙されてはいけない。
でもコクのある味わいはついつい後を引いて、普段は飲まないキツいお酒を楽しんだ。
彼は私が飲みきれない分までスイっと飲み干した。ステキだ。
今日、私が家を出るときに選んだ香りはディオールの「 エスカル ア ポルトフィーノ 」。『 ポルトフィーノへの寄港 』という名の香水は旅をテーマにした『クルーズ・コレクション』と言われるディオールの夏限定の香り。
イタリアの小さな港町『 ポルトフィーノ 』の夏を思わせるレモンとベルガモットの爽やかな柑橘の立ち上がりから、スモーキーな甘さへと変化する。ウッディベースのマニッシュな影のある香りはセクシーというよりは深みのあるほろ苦い大人の香り。ちょうどこんなふうに真夏の夜に暗いバーカウンターで男と二人で肩を寄せ合い、強めのラムを楽しむのにはうってつけだと自画自賛する。媚びない香り。大人の深い香り。それでいてしつこくなく、まるでひと夏のバカンスを爽やかに楽しむためにあるような。トワレの香りと共に味わう、男との時間とダークラム。
店を出る頃には私の体温と共に最後の甘いムスクが強くなった。香りは刻々と変化する。ラストノートはこんなふうに少し色っぽく香ってくれるところも気に入っている。
さて、このあとはどうしよう。
強めのお酒で思考があやふやだ。こんな時、女は少しぐらい強引にもっていかれたい。煮え切らない男への苛立ちとスマートすぎる振る舞いの物足りなさに、立ち止まる。
どうするの?
じっと彼の目を見つめる。明らかに私は酔っている。
「 電車なくなっちゃったね。タクシー捕まえないと 」
手を繋いで歩き出す。
閑静な坂道を上ると何軒かのホテルが並ぶ。
その前を話をしながら素通りしていく。
段々悲しくなってきた。
私はそんなに魅力がないのか。
ちょっと力を込めて引っ張れば、簡単なことなのに。
そういう対象ではないのか。そういうことね。
わざと面白おかしい話題で酔いを覚ます。
さっさと大通りに出てタクシーを拾えばそれで終わる。
今夜はお開きだ。
そう思って気持ちを切り替えたのに、タクシーはなかなか捕まらない。
「 はあ〜、、眠くなってきた… 」
ぼうっと空を見上げると東京のど真ん中でも見える小さな小さな星たちが遠慮がちに瞬いていた。
星が見えるな…
意識が宇宙へと吸い込まれそうになった瞬間、強い力でひじを掴まれた。
彼の表情を確かめるまもなく、柔らかな唇が重なる。
息もできずに、深い交わりへと誘われる。
彼の体に腕を回し、シャツ越しにかたくて広い背中を手のひらに感じる。
唇が離れ、深いため息と共に私の耳から首へと熱く滑り落ちた。
その甘美なキスはさっきまでの私の乾いた思いを一瞬で潤わせていく。
耳たぶのうしろに鼻を押しつけ、思い切り深く息を吸い込んで言った。
「 ああ…。いい香りだ 」
そしてやっとその優しく微睡んだ表情を私に見せてくれた。
「 何もしないって決めてたのに。我慢できなかった… 」
まるでゲームに負けた子供のように。
「 おっそいよ!」
明るく笑う私に、彼はちょっと拗ねたような顔をした。
その顔が恨めしくて、私からもう一度彼の唇を奪った。
止められない欲情はどちらが大きいのだろう。私はとても彼が欲しかった。我慢できなかったのは私の方だ。だけどそれは決して言わない。そぶりも見せない。誘うのはこの香りだけで十分だ。
爽やかな夏の香り。深くほろ苦く。
最後は甘く絡みついて、ほどけない欲望を開花させる。
私への寄港。
夏の思い出。
* ***** *
この物語は だいすーけさんのこちらの記事に触発されて書きました。
夏の記憶、思い出…。それはある香りやお酒によって不意に引き出されます。
切ないノスタルジーの記憶にのせたポエムを読んで、ラムのカクテルを味わうと、あの時の恋の欠片が鮮明に甦ってきました。
さて、これはリアルか妄想か?そんな野暮はやめましょう。もうすぐ夏も終わり。あなたのひと夏のノスタルジーを、今宵のお酒と共にこころゆくまで味わって…。
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