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大人へのボーダーライン / #2000字のドラマ


高校一年の夏休み、私は初めてアルバイトを経験した。

駅近のショッピングモール内にあるレストランバル。私は朝11時から入るので夜8時までの勤務時間だった。

店の閉店時間は夜11時。つまりラストまでのシフトは、未成年の私は入れない時間だった。

夜にカクテルなどのお酒を出す店は、6時からは照明をぐっと落とし、テーブルにキャンドルを置く。私は昼間の賑やかで慌ただしいランチタイムより、しっぽりと落ち着いた夜時間の方が断然好きだった。BGMも昼間のポップスから一転、夜は大人なソウルミュージックやジャズをかけていた。

「これ、何ていうアーティストですか?」

音楽を担っていたのはその店の雇われ店長のユウジさん。私とは一回り以上も違う、大人の男性だった。

「パティ・オースティンだよ。知ってる?」

「いえ、知りませんでした。素敵な声ですね」

「じゃあこれ、貸してあげる。ダビングしていいよ」

そう言ってユウジさんは私に一枚のLPレコードを貸してくれた。


近寄りがたく、でももう少し近づきたい。憧れはあるけれどあまりにも世界観が違いすぎて私はオドオドするばかりだった。


「おたま!遅刻だぞ。また彼氏んとこ泊まってきたんだろ」

「おはよぅございま〜す。え?違いますよ。ちゃんと昨日は帰りました」

おたまさんは大学4年生。真っ黒な艶々のストレートヘアを手早く一つに束ねて仕事モードに切り替える。露わになった耳元には、いつも大ぶりのシルバーピアスが光っていた。ハッキリとした目鼻立ちがとても美しい。鼻筋が通り、伏せ目がちにすると長い睫毛が憂いを帯びた影を作り、同性の私でもドキッとした。私にはこれまでの人生では出会ったことのない、初めて身近に接する素敵な大人の女性だった。

おたまさんは玉木玲子という名前だった。ユウジさんは時々「レイコ」と呼んだり「たまちゃん」と言ったり「おたま」と呼んだりした。私のことは「長瀬さん」と苗字で呼ぶだけだった。何だか玉木さんが羨ましかった。

「玉木さん、玉木さんの彼氏ってどんな人なんですか?」

私は羨望の眼差しで玉木さんに尋ねた。当たり前だがまだ大人の付き合いなんてしたことがなかった。つい半年ほど前まで中学生だった私は、男と女のことなんて何も知らなかったし想像ができない。少女漫画に出てくる、清らかで切ないラブストーリーの中には彼氏の部屋にお泊まりした時のあれやこれやなんて全く出てこない。怖いもの見たさで興味津々の私に、玉木さんはウフフと笑うだけで何も教えてはくれなかった。

「長瀬さん、お疲れ様」

ユウジさんから声をかけられるのは私の上がり時間の10分前、夜7時50分。この時間が一番キライだった。店はこれから佳境に入る。暗くなったフロアにはムーディーなR&Bが低く流れ、テーブルのキャンドルが妖しく揺れている。「ここからは大人の時間です。いい子ちゃんはお家に帰って早く寝ましょう」と言われているようでモヤモヤした。玉木さんはラストまでユウジさんとここにいられる。それは大人の特権だ。「大人の女」として認められた証。そう思うと余計に歯痒い気持ちが湧いてくる。仕事上がりに時々二人でお酒を飲みに行くことも聞いていた。そこでよく玉木さんはユウジさんに恋愛相談をするそうだ。一体どんな話をするのだろう。想像したくても私の頭には何も浮かんでこなかった。


「あ〜、ラストまでいたいなぁ」

思わず本音を口に出してブー垂れる。玉木さんはまたフフフと笑っている。

「代わってあげたいけどこればかりはねぇ。私は早く上がりたくて仕方ないけどなぁ」そう言って玉木さんはカクテルグラスを慣れた手つきで拭きながらユウジさんを虚に見た。

「おたまは一刻も早く彼氏に会いに行きたいもんな。長瀬さん、こんな不良になっちゃダメだよ」ユウジさんはふざけて玉木さんの頭をポンポンした。玉木さんは恥ずかしそうに肩をすくめてウフフと色っぽく笑った。

いいなぁ・・・。何だかいいなぁ・・・。私も早く大人になりたいなぁ。


ユウジさんに借りたパティ・オースティンのレコードはカセットにダビングして擦り切れるほど繰り返し聴いた。聴けば少しは大人に近づけるような気がした。高校に入ってすぐに反抗期の子供のように校則を破ってパーマをかけたショートヘアは鏡を見るたびに落ち込んだ。自分がどれだけ子供なのかを鏡を見る度に思い知らされているようだった。

それから私は髪を伸ばすことにした。目指すは玉木さんのワンレンストレート。つやつやサラサラのロングヘアだ。髪を伸ばせば少しは大人になれるような気がした。

近づきたくても簡単には近づけない。そのすべも分からなかったあの頃。大人になるってどんな感じなんだろう、どうすれば大人になれるんだろう。私もいつかユウジさんや玉木さんのような素敵な大人になれたらいいな、なれるかな?まずはこの夏休みをここで存分に楽しんで、少しダイエットして、パティをたくさん聴いて髪を伸ばそう。どうやら一足飛びにはなれそうもない、大人というボーダーラインに向かって、今夜も私は8時ジャストにタイムカードを悔しげに押した。


#2000字のドラマ #小説  

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